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「ロシア正教会」とは?ロシア正教の歴史
正教会とは?
正教会(せいきょうかい)とは、東方正教会(とうほうせいきょうかい)とも呼ばれ、キリスト教会(教派)の一つです。その歴史は1世紀の初代教会にさかのぼります。
正教会は一カ国に一つの教会組織をもつのが原則です。例として、ギリシャ正教会、日本正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会などがあります。信仰は、各国ごとの教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰をもっています。
ロシア正教会(ロシアせいきょうかい、ロシア語: Русская Православная Церковь、英語: Russian Orthodox Church)は、主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名です。ロシア正教会の歴史「ギリシャ正教会の成立」
キリスト教は十字架から出発して行く先々で迫害と殉教の中において打たれ血を流してきました。ローマ帝国においても、ネロに代表される皇帝の迫害は250年にわたって続きました。
そして、そこには「この印によって勝て」という言葉が示してありました。彼はすぐにキリストの軍機の下において戦うことを決意し、ついに勝利を得ることができました。
これがキリスト教史における一大転機であったのです。その後 313年にはコンスタンチヌス皇帝が改宗し、信教の自由の勅令によって自分が選んだ宗教を自由に奉じることが容認されました。さらにキリスト教徒には税金と兵役が免除され、教会堂建設の奨励と援助がなされました。
そして、日曜日はキリスト教の慣習に習って祝祭日と定めました。コンスタンチヌス皇帝は330年、異教の教えを固く守り続けているローマの貴族たちのゆえに、首都をビザンチンに移しました。
その人 コンスタンチノープル「新ローマ」呼び、新キリスト教帝国の首都としました。(現在のトルコ・イスタンブール)そして、奴隷制、剣闘、嬰児虐殺、十字架刑などはローマ帝国がキリスト教化とともに廃止されていきました。
首都であるコンスタンチノープルの総主教は、首都の教会が最優位にあると主張しました。 しかし、ローマ教皇がこれを認めず、ペトロが直接に伝道したローマの優位性を主張したことから、新首都コンスタンチノープル(ビザンチン)の東方教会と旧首都のローマ教会の西方教会の確執が芽生えていきました。
これは単なる勢力争いというより教義上の見解の差が原因となっていたことも事実ですが、 民族や国土の差異からくるところの考え方や習慣の差も影響していたのです。
コンスタンチヌス皇帝の後援により325年初めてニケアにて公会議がもたらされました。
その後この会議は8世紀までに前後7回開かれ、見解を統一することが試みられましたが 両者の溝は十分に埋められませんでした。
ローマは聖ペトロの墓(現バチカンのサン・ピエトロ寺院)のあるローマをもって「ローマンカトリック」を宣言し、コンスタンチノープルはパウロがギリシャで伝道したことをもってギリシャ正教の名称を打ち出しました。
ギリシャ正教はイエス・キリスト、マリヤ、天使、諸聖人の平面画像であるイコンを用いて熱い祈りを捧げています。
しかし、これに対して、旧約聖書のモーセの十戒に偶像崇拝がきつく戒められていることからずれば、イコンもまた人間の手で作られた作品であり、神聖を認められないではないかという見解が古くから存在していました。そして 726年には東ローマ帝国の皇帝レオン3世がイコン破壊令を発布するに至り、この聖画破壊運動(イコノクラスム)によって教会のイコンがことごとく破壊され、その後、約半世紀世界を揺るがした東方ギリシャ教会と西方ローマカトリック教会に分裂する一大要因となったのです。 そして、787年ニケアで開かれた第7回公会議で見解が統一されイコン崇拝は回復されました。
1054年に至っては、コンスタンチノープルとローマの主教庁は互いに相手を破門し合い、 共に自分をキリスト唯一の教会であることを主張し合い、1204年第4次十字軍がコンスタンチノープルを占領しました。
その時の降伏の条件はコンスタンチノープルの総主教がローマ教皇に完全服従するという到底 受け入れられない条件が含まれていました。ベネチア人たちから成り立っていた十字軍兵士は町を掠奪したり、教会を荒らし聖器物に対する冒瀆を行いました。
1453年、オスマントルコの侵入によって、東ローマ帝国は滅亡し、またギリシャもトルコの支配下に置かれることにより、ギリシャ正教の中核はロシア正教のみになってしまいました。
ロシアのギリシャ正教受容
ウラジミール大公(在位980年~1015年)が在位していた頃のキエフ・ロシアは種族的にも宗教的にも不統一でした。キリスト教は既に9世紀末にロシア地方に伝えられていましたが、この地には原始宗教の信仰がなお盛んでした。
これは森には「一つ目の怪物」、川や湖には「ルサルカ」と呼ぶ妖精がいると古代のギリシャのように天地自然の神々を信じていたのです。
大公の祖母オリガはギリシャ正教に改宗しましたが、個人的な次元にとどまっていました。 大公は統一国家の柱となるべき宗教を求め、ユダヤ教、イスラム教、西方教会(カトリック)、ギリシャ正教の調査のために使節団を派遣しました。
その報告はユダヤ教は祖国のない人々の宗教であり、イスラム教はロシア人の好物である豚肉と酒を禁じ、またカトリックは威厳がないということでした。その使節団に最も深い印象を与えたのはコンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂(現アヤソフィア)で、ビザンチンの人々が神に捧げる厳粛な祈りでした。
日本の古事記にあたるロシア最古の歴史書「ロシア原初年代記」によれば、ビザンチンの人々は使節団のために特別な祈りを捧げたと記されています。当時ビザンチンは全盛期を迎えていました。聖ソフィア大聖堂は信仰の象徴としてだけではなく、当時の文化と精神性の水準を明らかにする建物で素晴らしい聖歌と聖像と祈りで満たされていました。
使節団の報告には、「かように美しく素晴らしいものはこの世に類はなく、言葉を絶するほどでした。他の国ではこのように優れた儀礼をしている所はなく、ビザンチンの人たちの中に神様が住まれていることを知りました。その美しさは忘れ難いものであります。私たちは天にいるのか、地にいるのかわかりませんでした。…そこには神と人とが共におられることを知りましたと」あります。ウラジミール大公(在位 978年 - 1015年)はこの報告に感動しました。
しかし洗礼を受けた直接のきっかけは、その後クリミア半島にあった東ローマ帝国の植民地ケルソンを占領したことから、時の東ローマ帝国皇帝バシレウス二世( 976年~1025年在位)に書状を送ったことでした。その書状には皇帝の妹を妻に向かいたい申し入れと、それが聞き入れられない場合にはコンスタンチノープルに攻め上る旨が書かれていました。
それに対して皇帝は、異教徒との結婚は許されないキリスト教徒の妹を妻に迎えたいならば洗礼を受けるようにと回答しました。ウラジミール大公は皇帝の妹と聖職者を送ることを要請し受洗を約束しました。最初、皇帝の妹アンナは人身御供(ひとみごくう)になるようだと嫌がりましたが、皇帝に説得されて渋々ケルソンに渡りました。
ウラジミール大公はそのころ目を患い、失明寸前でしたが洗礼を受けた途端、奇跡的に目が治り、「今こそ本当に神が分かった!」と感嘆し、これを見ていた新兵団も先を争って受洗したと言います。その後キエフに凱旋すると大公は全国に発令してギリシャ正教を国教としました。そして、キエフの全住民をドニエプル川畔に集め集団受洗を行いました。
雷神ペルーンの像はドニエプル川に投げ込まれ、その後に石造りの立派な教会が建てられました。そしてビザンチンから聖職者、学者、工匠が招かれ、年代記が書かれました。さらに死刑を廃止し、道徳を尊重し、学校や福祉施設を設け、ウラジミール大公自身もそれまでの多くの妻妾と別れ、新しい妻アンナと共にキリスト教徒にふさわしい生活を送ったといいます。
この時以来、ギリシャ正教はロシア文化の中枢となり、1917年まで国教として存在していました。もしロシアがカトリック圏かイスラム圏に入っていたらその後の世界の進路は大きく変わり、ギリシャ正教はバルカン半島の一角の土俗的なキリスト教としてしか認められなかったかもしれません。
ウラジミール大公の賢明な息子であるヤロスラーフ大公(1019年即位)がコンスタンチノープル総主教によって任命された主教を受け入れることによってロシア正教とギリシャ正教との結びつきが強まりました。ヤロスラーフ大公はキエフの主教に、彼が母教会(コンスタンチノープル)を真似て造ったソフィア大聖堂を与えました。
そして、ビザンチンから伝わった様々な教会文献や世俗文献がスラブ語に翻訳され、またイコンの技法と教会建築様式も模倣されました。そして、キエフ・ロシア文化は黄金時代を迎えるのです。
11世紀の半ばには修道生活の理念が修道士アントニオスによって伝えられました。彼はドニエプル川に臨む丘の洞窟で修行を始めました。これが今日のキエフ洞窟修道院の起こりであります。
そのことはキリスト教の精神性がロシア人に少なからぬ影響を及ぼし、国民性の形成に大きく寄与しました。
現在のキエフの大通りは、クリエスチーツア(洗礼)通りと名付けられています。その通りには二列の並木があり、その景観は伝統の森の都の名に恥じないものです。
この「洗礼を受ける」という言葉は、もともとギリシャ語では「水につけられる」という意味ですが、これをロシア語では「十字架にかけられる」と翻訳しました。クリエストウは十字架という意味です。ロシア人にとって洗礼を受けることは十字架にかけられるということで、キリスト教徒は「十字架を担う民」ということになります。
モンゴル人の支配
13世紀初頭、遊牧諸民族が分裂割拠するモンゴル高原に突如現れた「蒼き狼」チンギス・ハンとそのあとを継いだ指導者たちは、たちまち欧亜にまたがるモンゴル大帝国を建設しました。
東方では、1331年より連年モンゴルの軍馬が猛烈に高麗王国に侵攻し、草木の根まで刈り取るほどに略奪しているところ、西方では1237年チンギス・ハンの孫パトウ・ハン率いる50万のヨーロッパ遠征軍が嵐のように東北ロシアを席巻し、1240年には首都キエフを略奪、破壊しました。そのことによって、多数の教会や修道院が消滅しました。
1246年、ローマカトリックの宣教師カルビーニが、ポーランドからキエフを通ってモンゴルに旅行した時の記録に、その当時の様子が残っています。
「私が旅した時、南ロシアにいたる所に、無数の人骨が散らばっていました。キリスト教が栄えていたキエフの町が今では人家200戸を数えるのみで、その人たちは生活苦にうめいていました」。
陽気で屈託のないロシア人が一夜にして奴隷の軛(くびき)につながれるという屈辱を味わうことになったのです。ロシア民族が「虐げられた人々」となったのはこの時からで、このタタールの軛(ギリシャ語で Tartarus 地獄という意味からという説もあります。
ロシア人は、キプチャク汗国に住むモンゴル人やトルコ諸民族をタタールと呼んだ)は、13世紀から300年にわたって続きました。ユダヤ人のエジプト苦役に匹敵する300年の奴隷生活、その深い絶望と苦悩のどん底から、救済の希求が神への熱い祈りとなって湧き上がったのです。
パトウ・ハンの子孫、ウズベーク・ハンは1313年イスラム教に改宗し、教会に対しては寛容でした。彼は公国と国民には重税をかけましたが、教会に対しては税を免除しました。さらに聖職者の生命は、モンゴルの保護を受けて戦国下においても安全で、伝道活動も自由にできました。
モンゴルの襲撃を避けて、ロシアの中心は南から北へ移動し、それと共に府主教座も1288年にウラジミールへ移り、修道院も南ロシアから北ロシアに重きを置くようになりました。ウラジミールにいる府主教は折に触れて南ロシアを回りましたが、その時は必ず北の景勝地であるモスクワ公国に立ち寄りました。
14世紀に入って、時の座主教ピョートルは、モスクワ大公イワン・カリータの権力と手を組み、今も名高いウスペンスキー・ソボール(Успенский Собор: 生神女就寝大聖堂 しょうしんじょしゅうしんだいせいどう)を建立しました。
その後、間もなくピョートルは、彼の根拠地ウラジミールではなく、このモスクワで死去しました。このことをきっかけとして1326年、府主教フェオグノストは、正式にウラジミールからモスクワに府主教の座を移しました。
ウズベーク・ハンがイスラム教に改宗した一年後、ロシア最大の修道者のラドネージのセルギー(1314~1392)が、ロストーフの貴族キリールとマリアの次男として生まれ、モスクワに近いラドネージに移り住みました。
幼い頃より宗教心を持ち、修道生活に関心を持っていたセルギーは、両親が死去すると、1350年ごろ修道のためモスクワの北約40 kmの森の中にこもりました。近くの農夫たちが彼を知るようになると、祈りや教えを求めて彼の所へ訪れ始めました。
そして、そこに間もなく聖三位一体修道院(トロイツキー)を建て、彼はそこの長老となりました。
現ザゴルスク(旧名称セルギエフ、1917年革命後、共産政権が革命家ザゴルスクの名に改名)は、現在ロシア正教の本部になっています。彼は服従、清貧、労働の三原則を貫いて修道生活をしました。ここから育った修道士達から、ロシア社会の下層の人々にその霊的生活が浸透し始めたのです。
またセルギーの修道院制度は、ロシア人の素晴らしい芸術的才能の出現を促しました。偉大なイコン画家アンドレイ・ルブリョフとダニエル・チョルネイは1400年頃が全盛で、セルギーの聖三位一体修道院や、モスクワや、その周辺の公国の会堂を飾りました。彼らの作品の中にロシア芸術が明確な形を取って表れたのです。
セルギーが、ロシア社会に与えたもう一つの重要な影響は、モンゴルの支配に対する国民的反抗の熱意をかき立てたことでした。モスクワ大公ジミートリが守り固めるようになったことを知ると、モンゴル帝国は40万の騎兵を編成してモスクワに向かいました。
しかも、このモンゴル軍には西の十字軍ジェノバやリトアニアの兵が近代兵器を持って加わっていたのです。ロシアは国の総力を挙げてこの国難に立ち向かう準備をしました。
1380年8月18日、モスクワ南東のヨロナムに集結したロシア軍とジミートリ公に、聖セルギーは、「恐れず前進せよ。神は汝を助けるだろう」と励ましの言葉送りました。1380年9月8日、クリコボにおいてイスラム・モンゴル軍の月印の旗とロシア正教の十字架の旗が入り乱れで戦いました。
その戦闘の結果は聖セルギーの言語通りロシア軍が勝利を収め、モンゴルが無敵ではないことを実証し、解放の希望を沸かせました。またこの勝利によってモスクワがロシアの都市の中で指導的な位置を占めるようになり、ロシアはモスクワを中心に復興されていたのです。
修道生活をしていた聖セルギーには、森林修道院の求心的な生活から生まれた、一種の神秘主義の傾向がみられ、それはやがて静寂主義(ヘシカスム)へと結び付いてきました。この静寂主義は、絶えざる祈りにより外界と離れて、没我の中に神秘的な神との個人的な一体化を体験するというもので、13世紀末になって、ギリシャのアトス半島の修道院を中心に次第に発展していきました。
このことはコンスタンチノープルの衰亡と無縁ではなく、一種の終末感と共に広がっていきました。14世紀に入ると、静寂主義がますます盛んになり、正教会から正式に認められるようになりました。ギリシャよりむしろロシアの森林修道院の人々の間に広まっていきました。
ロシア教会の独立
15世紀に入ると、ロシアの教会はビザンチン帝国の衰退とともに次第に独立性を強めていきました。教会独立のきっかけは、ローマ教会との合同問題にありました。ローマ教皇のエウゲニウス4世はギリシャ正教との合同(教皇の首位権を認めさせ、協議の上でもローマ教会の教義に従わせること)を画策して、フェララ・フィレンツェ公会議(1438~1443)を開きました。
この会議では、有名な「フィリオクェ問題」(聖霊発出論争)が大きく取り上げられました。「フィリオクェ」というのは「子からも」という意味です。6世紀頃、カトリックとギリシャ正教の間に決定的な溝を作った問題の一つです。
三位一体の教義は初代協会には全くなかったもので、「聖霊は父から出る」というのがギリシャ正教の古くからの考え方です。これに対しカトリックは6世紀頃から、「聖霊は父と子から出る」と解釈して「フィリオクェ」(子からも)の言葉を付加しました。
ギリシャ正教は、長年伝統的解釈を貫いて、「フィリオクェ」を認めなかったのですが、東西教会の統一をはかるフィレンツェ会議において、勢力の弱ってきたコンスタンチノープルが、ローマ・カトリックの勢力に押されて、「聖霊は父から子を通して出る」という妥協的な解釈を取ったためモスクワはこれに強く反発し、これを機にモスクワ大公ワシリーは、1448年、モスクワ府主教庁をコンスタンチノープルから独立させました。
それから5年後の1453年、コンスタンチノープルは陥落し、オスマン・トルコの支配下に入りました。このようにしてロシア正教が、ギリシャ正教を正当に継ぐ唯一の教会となったのです。ビザンチン帝国の崩壊は、ロシアにとって大きな衝撃ではありましたが、ロシアはこの事件を独特の立場から解釈しました。すなわちビザンチン帝国とその教会は正統的信仰に背き、ローマ教会との妥協を計ったために神罰として異教徒に滅ぼされたと考えたのです。
16世紀初頭には、この考えをさらに進めて「モスクワ第3ローマ説」なるメシア的使命感に基づいた主張が出てきました。これは「永遠のローマ」理念をもとに、プスコフの修道院長フィロフェイが、モスクワ大公イワン3世に宛てた書簡(1505年)があります。
「第一のローマは異端者のために滅び、第二のローマ(コンスタンチノープル)は、サラセン人により滅ぼされました。今や、第三のローマたるモスクワ公国の正教会だけが、すべてのキリスト教国の上に太陽よりも明るく輝くのです。モスクワ皇帝によるキリスト教国は不滅であり、第四のローマはありえません」と。
このような「永遠の天国」の思想は「ダニエル書」をモデルにしたものです。この考えはロシアのツァーリズムの展開にはある程度の影響を与えたとしても、教会について見れば、モスクワ府主教が、コンスタンチノープル総主教の管轄を継承するといった事態は、起こり得ませんでした。ロシア教会はキリスト教の中心から離れていましたし、コンスタンチノープル総主教に代わる実力も備えていませんでした。
1472年、ロシアに政治勢力を得ようとしていたローマ教皇は、ロシアの将来はモスクワに託されていることを見て取り、ロシアで教育を受けていたビザンチン帝国最後の皇帝の姪、ソフィア・パレオログをイワン3世に継がせました。イワン3世はビザンチン王家の双頭の鷲の紋章を借用するなど、内外に自分の権威を高めるのにこれを利用しました。皇帝、ツァーリーという称号が、モスクワ大公によって常用されるのはイワン4世からです。
1408年、イワン3世はモンゴルへの貢納を停止して、キプチャク・ハン国の攻撃を受けましたが、逆にモンゴル軍を破って独立を達成しました。1216年、初めてモンゴル軍に侵略され、1243年から続いた「タタールのくびき」からようやく解放されたのでした。
1502年にはクリミア・ハン国と協力してキプチャク・ハン国を滅ぼし、東北ロシアの統一を実現しました。
15世紀から16世紀初頭にかけて、教会と修道院のあり方をめぐって論争が行われました。当時、ギリシャのアトス山で行われていた神秘主義的な修行方法、静寂主義を実践していた高名な修道士ニル・ソルスキィは、修道院の世俗化に危惧を表明し、ヴオロコラムスキイ修道院の院長、ヨシフ・ウォロッキーと論争になりました。
前者の立場を非所有派、後者の立場を所有派と呼ぶのは、ヨシフが教会の社会的責任を強調し、そのために教会および修道院がしかるべき財産を持つことの必要性を主張したからです。結局所有派(ヨシフ派)が勝利し、正教会の教えからのあらゆる逸脱を厳しく監視し、この路線が16世紀の主流となりましたが、これは教会が国家に従属する道を開く原因となったのです。
1589年には、コンスタンチノープル総主教との話し合いによって、モスクワ府主教はついに総主教に昇格しました。
さらに四年後には、東方教会の四人の総主教のうち、残りの三人アレキサンドリア、アンティオケ、エルサレムの各総主教もまた、モスクワ総主教が、正教世界第5のメンバーであることを承認しました。
モスクワ時代
1243年に始まったモンゴル人の支配「タタールの軛(くびき)」は、1502年キプチャク・ハン国滅亡まで259年の長きにわたり続きました。そして、それに続く200年のモスクワ時代もまた、それとは形態の違う奴隷時代でした。
ヨーロッパの絶対主義(君主に無制限な支配権を認める政治思想、絶対王政。英国のエリザベス一世、フランスのルイ14世など)が農奴制(領主から貸与された土地を耕作し、土地に束縛され、移転の自由を持たない。土地と共に売買、譲渡されることもあり、領主に対しては強度の隷属関係にある保有農民。ただし、財産所持や婚姻などの権利能力を持つ点では奴隷とは異なる)を基盤とした封建貴族の政治権力の喪失の上に出現したのに対し、ロシアの絶対主義は、それとは反対の方向の中に形成されました。
イワン4世(1533~1584)以来、旧貴族を圧迫し、譜代の家臣たる士族に土地を与え、その収入を確保するため農奴制の強化という方向の中に、絶対主義を形成していきました。以来、ロシアの農奴制は1861年、アレクサンドル2世により農奴解放令が発令される後まで続きました。
祖国を奪われ、「虐げられた人々」の運命の苦杯をなめたユダヤ人たちは、やがてユダヤ民族が世界救済の中心になるだろうというひそかな希望に生きていました。これと同じ考えが聖なるロシアの農民にもありました。つまり、ロシアが世界を救うという確信でした。これは普通の民族主義ではなくて、民族主義的メシア主義です。
かつて、1050年、キエフの最初のロシア人府主教となったイラリオンは、「律法と恩恵について」の有名な説教の中で、「ロシアの民は救いの普遍的歴史に対して、能動的な役割を果たすために招かれた正教の民である」と語っています。
民はこれを意識して、ロシア語では、キリスト者(christianus)と農民(Крестьянин クリエスチャーニン)を同じ言葉に統合しています。ちなみに西ヨーロッパにおいて、ラテン語の村人-農民、paganusと異教徒、paganは同じ同義語です。
イワン4世は、その当時があまりにも暴君的だったので、イワン雷帝と呼ばれました。ロシアでは雷は古くからペルーンと呼ばれる魔除けの神を指し、雷が鳴ると人々はペルーンが空を駆け巡り、火の矢を放って悪魔を退治してくれると考えていました。この悪魔というのが、当時の大貴族たちでした。
イワンは、3歳で父を失い、7歳にして母を毒殺され、大貴族たちの権力闘争が渦巻くモスクワ宮廷で、恐怖と孤立感の中で育ちました。当時、貴族の中でもベリスキー家とシュイスキー家が勢力を争い、流血事件が繰り返されていました。
その中で今は死の恐怖を体験していたのです。常に厳しい孤独のうちに幼少期を送ったイワン雷帝は、早くから読書に慰めを見いだし、聖書伝、ビザンチン年代記などを読みあさりました。また彼は6ヶ国語に通じるというように、後のロシア・インテリゲンツィアの原型でもありました。
1546年12月、イワン彼の神学の師、府主教マカリーに妻を娶るつもりであることを告げました。あれほどの放蕩の後に、かくも健全な決意が戻ってきたことを、府主教は大層喜び喜びましたが、当時10年間戦争に明け暮れていたロシアに外国の姫君が嫁いでくることは期待できませんでした。
結局、ロマノフ家のアナスターシャを皇后に選び、モスクワのウペンスキー大寺院で府教主の手から帝冠を受け、初めてキリスト教皇帝としての輝かしい戴冠式をあげました。当時、彼はわずか17歳でした。この時、後の新王朝ロマノフの名が初めて史上に登場したのです。
1568年11月、イワンがウスペンスキー大寺院で祝福の祭礼を求めた時、モスクワの府主教、聖フィリップは、イワン雷帝の創設した悪名高い秘密警察(ロシア語:Опричники オプリーチニキ)の横暴に対する批判をし、民衆のへの毅然たる態度で皇帝に悔い改めを迫りました。
「どんなに信仰心のない野蛮な国でも正義は存在し、民衆への哀れみというものはある。しかし、ロシアにはそのどちらも存在しない。市民の財産や生命は守られていない。至るところで略奪や殺人が行われている。しかも、これらの卑劣な行為が皇帝の名の下に行われている」と。
この時の議論にイワンの方が負けました。なぜならば、彼のような絶対君主でも、合法的な口実がなければ自分が所有する大聖堂の中でも、府主教を相手に事を荒立てることははばかれたからです。そしてイワンが大聖堂を去る時の彼の目は憎しみで満ちており、復讐を決意していました。
1568年11月8日、聖フィリップがウスペンスキー大聖堂で、祭礼を取っている最中にオプリーチニキが入り込み、府主教の祭服を引き裂き、その事が原因となって府主教は殉教しました。
モンゴル人によって支配された259年の間にもたらされた恐怖、密告、諜報、警察支配といった統治パターンは、その後もオプリーチニキ、チェッカー、KGB の名で変わることなく「見えざる恐怖の国保安機関」として続いていきました。イワン雷帝が治めた約50年間に、ロシア全土には悲しみと恐怖が満ちたのでした。そのイワン雷帝の崇拝者の一人がのちのスターリンです。
17世紀に入ると、教会の堕落と内紛が表面化しました。16歳で皇帝となったアレクセイ・ロマノフ(在位1645~1676)は、当時ロシアの聖職者の中で、人々に人気のあった新ギリシャ派のノヴゴロド府主教、ニーコン(1608~1681)を総主教に任命しました。1652年、総主教に就任したニーコンは、ギリシャ正教にロシアの教会が歩調を表そうとして、ロシア協会の改革に乗り出しました。この頃までにロシア教会は、所有派の主張が徹底していました。
彼は進行が極端に儀式化、形式化されているロシア教会の現状を憂い、ギリシャ正教本来の姿に戻そうとしたのでした。ここでいわゆる「ニーコンの改革」が開始されることとなります。典礼を改訂し、十字架を切る時は従来の2本指ではなく、3本指を用いること、儀式中に唱えるハレルヤも2度ではなく3度繰り返すべきであるとしました。
3年間にわたって教会会議を開いて、決定して言ったこれらの事は「モスクワ第3ローマ説」をとる保守的な聖職局、信者の間に激しい抵抗を巻き起こしていきました。結局、ポーランド遠征中に帰国したアレクセイは、ニーコンやり方を見て彼を失脚させました。
しかし、典礼改革はそのまま認められることになったのでした。このためロシアでは、修道僧をはじめ保守的な農民の間で一世紀以上も固く守られてきた古い儀式が、親ギリシャ派によって、簡単にギリシャ風に変えられてしまい、これに対して古儀式派または分離派と呼ばれる改革反対派は激しく抵抗しました。
1670年から古儀式派への弾圧は日増しにひどくなり、時には1日に1000人、2000人という多くの殉教者が出ました。また、修道院ぐるみで、皇帝の軍隊と戦って、全員虐殺された例もありました。結局、ニーコンの教会改革の夢は、逆の結果となり、実際は皇帝の権力が増してロシア正教を意のままに操ることとなりました。
ペテルスブルグ(レニングラード)時代
17世紀に既に始まっていたロシアの西欧化は、18世紀に入るとピョートル1世(在位1682年~1825年)の強引、果敢な改革によって急激に促進されました。ピョートルは在位15年後、数百人の随員を連れて、ベルリン、アムステルダム、ロンドン、ウィーンを視察しました。
この視察の目的の一つであった対トルコ十字軍連盟の結成は実現しませんでしたが、西欧の進んだ制度、技術を導入し、アジア的要素の強いロシアを西欧化し、絶対主義の基礎を築きました。
1700年、バルト海への進出のために、30年戦争以来、その支配権を握っていたスウェーデンとの間に北方戦争を起こしました。ポーランド、デンマークと結んでポルタバの戦い(1709年)で、スウェーデンのチャールズ12世を破りました。
これによりロシアはバルト海沿岸地域を領有し首都ペテルスブルグ(ピョートルの要塞の意味)を1703年に築き、1712年に首都としました。ここは「西方の窓」と呼ばれ、1914年には、ペトログラード、1924年にはレニングラードと改名されました。1721年には国号をロシア帝国と改称、ピョートルは元老院から、大帝の称号を贈られました。
ピョートル大帝が行った西洋化の中には、ロシア人の生活を根底から揺さぶるものがありました。その一つが暦の改正です。ロシアの暦はこれまでギリシャ正教の暦で天地創造を元年とし、新年は9月1日でした。それを西欧式に変え、キリスト生誕を紀元元年とし、新年は1月1日としました。
ピョートル大帝はスウェーデン、英国、フランス、ロシアで視察したことに基づき、ロシア正教会の総主教制度を廃止しました。1721年、総主教座の代わりにシノード(宗務庁)を成立しました。それは実務を司る主教たちから構成されていましたが、ピョートル大帝が任命した俗人官僚の宗務監督下に置かれていました。
こうして、ロシア正教会は、皇帝が存続した200年間、国家の一部門に過ぎなくなったのです。宗務庁を創設した「教会規制」は司祭たちが、告解聴聞席で反逆や反政府的策謀の証拠をつかんだ場合、それを警察に通報することを義務付けました。
この宗務庁時代は、教会が国家に隷属した時期ではありましたが、信仰生活の面では、衰退しませんでした。1686年のウクライナ併合という政治的事件が、結果としてロシア正教会の神学の発達に大きな影響を及ぼしました。
ウクライナの正教会が、ポーランドの重圧にもめげずに存続し得た背景には、1632年にキエフ府主教の地位についたピョートル・モギラを代表とする当時の神学者に見られるように、聖職者の必死なる戦いがありました。
彼らは必死にラテン神学を学び、それを武器としてローマ教会に対抗したのです。ウクライナの神学者たちの努力により、ロシア教会の教義が初めて整理されましたが、カトリックとの対決する機会がなければ、その必要がなかったかもしれません。
17世紀末に創設された神学大学ではピョートル大帝の支持もあり、ラテン式カリキュラムに従って、聖職者の養成が始まりました。したがって、ラテン神学に素養のある神学者がロシアの近代化に果たした役割には大きなものがありました。
しかし、あまりにも権力と結びついた反動として、修道生活が人々の心を引き付けて行きました。ビザンチン神学の静寂主義(ヘシカズム)はロシア各地において、広範に、熱心に探究されました。
ギリシャのアトス山の修道士マカリオス・ノタラスとニコデモスは静寂主義、特に「主の祈り」の実践を目指して、4世紀~15世紀の教父たちの修道生活や神秘主義に関する著作をまとめ、1782年に「フィロカリア」の題で公刊しました。
それは間もなくスラブ語に訳され、「フィロカリア」は敬虔な信徒の心の糧として、たちまちロシア全土に普及しました。この宗務庁は1917年の共産革命まで続きました。
19世紀ロシア文化の黄金時代
ロシアの国民的詩人、プーシキンが生まれて(1799年)からトルストイがなくなる(1910年)までの約100年間、このロシアの19世紀は文化の黄金時代でした。特にドフトエスキー、トルストイに代表されるロシア文学は、全世界の人々に愛読され深い感銘を与えました。
ロシアに文字がもたらされたのは、十世紀末のウラジミール大公のキリスト教受容以降でした。ビザンチン領、マケドニアのテサロニケ出身の兄弟宣教師、キリロスとメリシオスの二人は招かれて、863年にモラヴィア(チェコスロバキア)の一部に赴き、そこに住むスラブ人のためにアルファベット(キリル文字)を考案しました。
第一次ブルガリア帝国が1018年に滅亡してビザンツ帝国に併合されると、多くのブルガリア人聖職者がキエフ・ロシアに亡命しました。
そこで彼らによってスラブ語典礼がキリル文字で伝えられました。ロシアにおいて、もし既成のスラブ語を表記する文字が伝わらなかったならば、その後の文化の発展が大幅に遅れたことでしょう。
13世紀より259年間にわたってモンゴル人に支配されたロシアは、その後、200年間鎖国状態を続けました。その13世紀から17世紀の間、西ヨーロッパは「十字軍」のあとを受けて「商業の復活」が始まりました。
そして「ルネッサンス」、「地理上の発見」。「宗教改革」、さらに「資本主義の発展」と一連の近代化が目覚ましく進行していきましたが、その間ロシアは、取り残されて、後進国へと転落していたのです。
18世紀、ピョートル大帝が登場すると、彼は西ヨーロッパへの門戸を開き、ロシア帝国を強大な国家へと転身させていきました。彼のその政策の恩恵を受け、西欧の文物が盛んに流入するようになると、ロシアにも古典主義文学が起こりました。さらに女帝エカテリーナ二世の頃には、フランスの啓蒙思想の影響を受けた自由主義作品を発表する作家が現れました。
19世紀に入ると、ロシアの文化は黄金時代を迎えました。西欧に学ぶ学習の時代から黄金時代への飛躍は、1812年の対ナポレオン戦争によって、いっそう弾みがつけられました。それまでロシア文化の教師であったフランスとの戦いはロシア国民の文化的自立のきっかけとなったのでした。
1817年10月、勅令が発布されました。それによると文部省は「宗務、国民教育省」と改められ、「聖書」が教育の原理となりました。そして、ロシア正教の伝道が広範に行われ、「聖書協会」の支部が各地に設けられました。
1825年12月14日、ナポレオン戦争に従軍したロシアの青年将校を中心に、デカプリスト(十二月党)と呼ばれるロシア最初の革命運動が起こりました。皇帝専制と農奴制の破棄を目指して武装蜂起しましたが、鎮圧され、首謀者は死刑、他のものはシベリアに流刑となりました。
アレクサンドル一世の後を継いだニコライ一世は、君主独裁制の強化のため、ロシア正教の擁護と警察組織の整備を行いました。また、リトアニアや白ロシア、ウクライナなどのロシア領ヨーロッパにおいても、西欧の影響を諦め出すために厳しい弾圧を加えました。
1848年、マルクスとエンゲルスによって「共産党宣言」が出され、フランスに第二共和制を樹立した2月革命は、ヨーロッパ各国に革命をもたらすことになりました。ロシアでは自由主義者が逮捕され、検閲が強化されました。また、外国を旅行することが禁止され、大学では哲学の講座が廃止されました。
1853年、ナポレオン3世がトルコと組んで、それまでギリシャ正教教徒が握っていた聖地エルサレムの管理権を奪ったことに対して、ニコライ一世は抗議し、トルコ領内のギリシャ正教徒保護を口実に、トルコに宣戦布告をしました。
翌1854年には、ロシアの南下を恐れて英国とフランスが介入し、クリミア戦争の始まりとなりました。
ロシアの軍需工場が、当時「世界の工場」と言われていた英国に対抗することは不可能でしたし、硬直化したロシアの軍事、官僚機構は、生産と輸送を効果的に運用できませんでした。また軍隊を見れば、英国とフランスが市民軍であったのに対して、ロシア軍は貴族に指揮された農奴たちでした。それらはまさしく近代と中世の戦争でした。この戦争でのロシアの敗北は、ロシアの軍事、官僚体制の後進性を暴露しました。
1855年3月2日、ニコライ一世が死去し、アレクサンドル2世が即位しました。彼は1861年、中世的制度として批判されていた農奴制を廃止しました。皇太子時代にツルゲーネフの「狩人日記」を選んだ彼は、農奴制の罪悪性を痛感し、その時からこの制度の廃止を固く決意したと言われています。
農奴制の廃止によって、一定の土地が農民に譲渡され、その用権益は農村共同体(ミール)に与えられました。しかしこの改革に対して農民が不満でした。それはそれまで農奴たちは自分の身は領主のものだが、耕している土地は自分のものだという意識でいました。
しかし、この改革で彼らに譲渡された土地は、はそれまで彼らが耕作してきた土地の一部にしか過ぎなく、さらに自分のものだと思い込んでいたその譲渡された土地の代金をね年賦で支払わなければならなくなったからでした。したがって、それ以降も搾取は存続しました。実にこの農奴制が、後の革命の根源であり、また要因でありました。
当時、ロシアにおける霊性の最も名高い前進基地は、オプチノ修道院でした。19世紀のエリートや大衆に多大な影響を与えたのは、壮大な土地や建物でもなく、修道者たちの学識や荘厳な礼拝でもありませんでした。それはひとえに偉大な長老、霊的な指導者のゆえでありました。トルストイ、ドストエフスキー、ゴーリキーのような大作家がよく訪れ、実際ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中でオプチノを描きました。
トルストイ(1828~1910)は伯爵家の四男として、ヤースナヤ・ボリヤーナで生まれました。2歳で母を亡くし、9歳で父と死別し、1841年に叔母の領地であるカザンに移りました。そしてカザン大学に入学しました。カザンは歴史的にロシアと東方を結び付ける要衝の地でした。
彼は、人生の意義を捉えようと様々な宗教の研究を始めました。ヘブライ語を学び、ギリシャ語をマスターし、聖書、神学的著述、そして老子、孔子、釈尊も研究し合理主義的、倫理的、実践的な普遍宗教の方向へと向かいました。そして、彼は既成キリスト教の教え、ことに教会の教えが嘘偽と非合理に満ちていることを批判しました。
1884年、彼はトルストイ的キリスト教を確立し、『我が信仰は何にあるか』を書き上げました。「怒ることなかれ、姦淫するなかれ、誓うなかれ、暴力をもって悪に抗することなかれ、戦うなかれ」という五つの戒律をキリストの山上の垂訓の中に見出し、これがキリスト教の根幹であると考えました。また、農民にならって、自分の生活を簡素にし、労働を尊び、ロシアの国民の良心を代表しました。
当時、正教会は彼を破門しましたが、それは彼の権威を高めるのに役立つのみでした。やがてトルストイ考え方、生き方は、1880年以降のロシア文学の世界的ブームによって大きな反響を呼びました。政府はトルストイの小冊子を持っている民衆を投獄、追放するのみで、全世界に崇拝者を持つこの作家に手を触れることはできなかったのでした。一部の者がトルストイの逮捕を要求した時に、農民たちは、「トルストイを入れるほどの牢獄はロシアにはない」と答えたといいます。
レニングラードの中心、ネフスキー通りに、バチカンのサンピエトロ寺院を模して建立された美しいカザン寺院があります。
カザン寺院は1993年には、「宗教と無神論の歴史に関する博物館」と名付けられ、館内には、イスカリオテのユダとトルストイが並んだイコン風の絵が掲げられていたそうです。1917年ロシア革命以前、正教の司祭たちはこのようなイコン風の絵を用いて、「トルストイはユダと同じ地獄に行く」と言っていたそうです。
ドストエフスキーとロシア正教
ドストエフスキー(1821~1881)は、人間の魂の苦悩の芸術的表現者として、世界の文学の中でも比類のない地位を占めています。彼もまたツルゲーネフやトルストイと同じように貴族出身でありましたが、貧しい軍医の息子としてむしろ庶民に近い生活を送っていました。
社会主義の理想をロシアに実現することを夢見て、ペトラシェフスキーの秘密組織に参加し、1849年に逮捕され、シベリアに流刑となりました。
言語に絶する厳しい生活が始まりましたが、流刑中のデカプリスト(十二月党員)の妻たちに温かく迎えられ慰められました。その時贈られた新約聖書が彼の唯一読むことを許された書物でした。
こうして牢獄を出た時、彼は既に思い上がった革命家ではなく、謙遜を美徳とし、ロシア正教の中に救いを見いだそうとする宗教的な人間となって、首都に戻りました。
晩年のドストエフスキーは、政治問題、社会問題についても積極的に発言し、特に、1876年から個人雑誌として『作家の日記』を刊行して、自己の思想を自分の言葉で率直に述べています。
「正教の運命は、ロシアの使命と結び合わされているのだ。しからば、この正教の運命とは何であるか?地上の権力のために既に早くからキリストを売り、人類をして顔を背けしめ、かくのごとくして、ヨーロッパの唯物主義と無神論の主たる原因となったローマン・カトリックは自然の数として、ヨーロッパに社会主義を生み出した。なぜなら、社会主義はもはやキリストによらずして、神とキリスト以外に、人類の運命の解決を目的とするものであって、カトリック教会そのものの内部において、キリスト教の根源が歪曲され、喪失されるにしたがって、その退廃せるキリストの代わりに当然、ヨーロッパに発生するべきものであったのである。
かしこに失われたキリストの姿は、正教においてその清浄無垢の光を、完全に保ったのである。近くに来たらんとする社会主義に向かって、新しき言葉が東方からさし上って、おそらくヨーロッパの人類を再び救済するであろう」。(河出書房新社刊・ドストエフスキー全集⑮『作家の日記』下353ページ)
「正教の現在の運命と将来の運命、その中にロシア民衆の全理想が含まれているのである。その中にこそキリストに奉仕し、キリストのために苦悩を忍ぼうという、彼らの活動が込められているのである。この渇望は真心から生じた偉大なものであり、太古以来民衆の中に絶えたことがなく、また将来も絶ゆることがないであろう。これは我が国家の特質を尋ねるのに、きわめて重要な事実である。(同上⑭、上565ページ)
「ロシアの社会主義の究極の目的は、この地球が入れ得るかぎり範囲内で、地上に実現される全民衆的、全宇宙的教会なのである。常にロシア民衆の中に存続する飽くことのなき渇望、キリストの名における偉大なる全民衆的、全同胞的結合の渇望をいうのである。
よしこの結合がまた現実にないとしても、よしこの教会が単に祈祷の中ばかりにあって、事実の上に、完全に建設されていないにせよ、とまれこの教会の本能と、それに対する飽くことなき渇望は、時としてほとんど無意識なのでさえあるけれども、我が一億の民衆の心の中に、疑いもなく存在しているのである。
ロシア民衆の社会主義は、共産主義や、機械的形式に存在するのではない。彼らは究極においては、キリストの名における輝かしき結合によってのみ救われるものと、かたく信じきっているのである。これが我がロシアの社会主義である」。(同上⑮、15下478ページ)
以上、『作家の日記』の言葉から明確なことは、ロシアの民衆が自己の内部に持つロシア正教を尊び、ロシアの大地と結びついている信仰を理解せずに、いかに世界を変革し、貧困をなくしたところで、真の自由と幸福は得られないということであります。
帝政ロシア末期のロシア正教
20世紀に入ると、農奴解放以来40年間、比較的平穏であった農村では、一揆が頻発し始めました。工業の高度成長も、1900年~1903年の恐慌によって大きな打撃を受け、外資流入の激減、企業閉鎖、失業、賃金引き下げが労働運動を激化させました。
1905年1月、第一革命の発端となったのは、血の日曜事件でした。この事件の中心人物ガボンは、農民出身の司祭でトルストイ主義の影響を受けていました。彼は神学大学在学中に、大学の講義に満足せず、工場での伝道に力を入れていました。1903年に労働者のクラブをつくりましたが、この会員四人の解雇に端を発した1905年初頭のプチロフ工場のストライキが他の工場に波及していきました。
そうした中で首都の労働者の窮状を訴え、他方面にわたる改革を要求する請願文を皇帝に提出しようとする計画が出てきました。ガボン司祭は府主教アントニーの同意のもとに1月9日、日曜日、数万の労働者とその家族とで、工場街から隊列を組んで、市の中心にある冬宮に向かいました。その行進は皇帝の肖像、教会旗、十字架を掲げた平和的なものでしたが、政府はこれに対して厳戒体制を敷き、冬宮の前で停止しない隊列に発砲することで多数の死傷者を出しました。
その後モスクワで起こった無差別な流血事件で、皇帝は人民の父であり、人民を救ってくれるただ一人の人といった素朴な皇帝信仰は霧散していきました。政府の血の弾圧は、国内外でただちに抗議運動を呼び起こしました。1月中だけで約四十万の労働者が抗議のストライキを行い、各自で労働者や学生によるデモが軍隊と衝突し、第一革命が始まっていきました。
5月15日、ゼネストを続けるイヴァノア市でソヴィエト(会議)という言葉が始まり、革命的労働者の権力を意味していきました。レーニンは、皇帝に対する武装反乱は可能だとの結論を下し、それを実行するための方法を準備し始めました。
日露戦争の講和交渉(1905年)で活躍したウィッテ伯は、祖国の将来を思い、正教会の腐敗を憂えて、次のように回想記に書いています。「・・・ロシアの魂である正教会がますます腐敗、堕落しつつある今日、ラスプーチンやイルリオドルやゲルモン主教にまつわる醜い事件は、正教の最高府がいかに腐敗の底なし沼に落ち込んでいるかを如実に物語っている。疑いもなくそれは、ロシアのある宗教生活上に反映する。したがってロシアのあらゆる国家の機構、あるいは国家の上にも反映せずにはいないが、正教会とその僧侶たちは、ロシアの建設や、特にその教育において今日まで大きな役割を担っている。正確にいえばロシアの全人民の間に、最も偉大な役割を演じているものは正教会である。正教会が動揺すれば、ロシア全人民の生活も動揺するであろう。そこにロシアの歴史的生命の最大の危険が潜んでいると言っても過言ではない」。(原書房刊、ウィッテ伯回想記(中)日露戦争と露西亜革命511ページ)
ロシア正教では聖職を志す者は、最初の段階である輔祭となる前に、「白衣の僧」と称される在俗司祭(下級聖職者)の道を選ぶか、「黒衣の僧」といわれる修道司祭(高位聖職者)となるかを決めることになっています。在俗司祭となる場合は、輔祭叙階以前に結婚し、自己の教区の信徒の司牧に専念するようになります。高位聖職者となるのは独身の修道司祭に限られ、彼らは広大な修道院に住み、国家から援助を与えられ、不自由のない生活を送ることができました。しかし、在俗の司祭たちは、一般に大家族を抱え、帝政末期が近づくにつれ、生活も苦しくなり、「白衣の僧」の「黒衣の僧」に対する反目が積もっていきました。
在俗司祭は親代々の職業となったため、徳性の面でも、教養の点でも司祭として信徒の霊的指導者としての資質に欠けるものも多く、破壊僧を生むこととなりました。その息子もやむをえず神学校に入学しますが、有為な人間ほど他の職業に移ろうと試みていきました。革命運動を彩る活動家のなかにも神学校出身者が少なくありませんでした。政治家スペランスキー、革命思想家チェルヌイシェフスキー等の近代ロシアを代表する多くの人々が、村司祭の息子でした。
後のスターリンはチフリスの正教神学校出身ですが、神学校当時を回想して次のように語っています。「神学校では最も屈辱的で、専制的な仕打ちに合った。スパイが盛んに行われた。九時にはベルが鳴って朝食に行くが、食堂から帰ってみると、われわれの机の引き出しはひっくり返されて捜索されていることが分かった。私がマルクス主義者になったのは、私の社会環境のせいであり、私が数年間を送った正教会神学校のジェスイット的弾圧と頑迷固陋さのせいである」。進学校では常に生徒の所持品は調べられ手紙は開かれ、校外の行動も厳しい監視の下にありました。学校と警察は密接に連絡をとっていたのでした。
神への疑いー人生への疑問、これがスターリンを町の図書館へ閉じ込もらせることになります。当時ダーウィンの『生物学』、ミルの『自由論』、ビクトルユーゴーの『レ・ミゼラブル』『海の労働者』、ルナンの『キリスト伝』は禁書でした。厳しい舎監の目をかすめてスターリンは、ダーウィンの本によって無神論者になり、マルクスによって社会主義者になったのでした。
「神を信じるとは何か、学校は何も教えてくれない」、そのような正教の神学校はロシア革命の聖職者を生む所であり、スターリンの革命思想」に貢献しました。帝政ロシアの学校は全て正教の神学校的色彩を持っていました。ゆえにロシアのマルクス主義者は、正教に対する憎悪と反感から、そのアンチテーゼとしてのマルクス主義に回心していったのでした。
1899年5月27日、神父ジミトリーの提言により、スターリンは放校処分となりました。一匹の迷える羊を野に放ったことにより、ヨーロッパでも有数のキリスト教国であったロシアは、革命後、ローマ帝国のキリスト教弾圧に等しいほどの苛酷を極める弾圧を受けることになったのです。
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