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『終戦時のソ連・満州 / シベリア抑留の体験談』 - 安部孝一氏(元第百七師団長)の言葉まとめ④

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『終戦時のソ連・満州 / シベリア抑留の体験談』 - 安部孝一氏(元第百七師団長)の言葉まとめ④

元、大日本帝国陸軍の第107師団長である安部孝一氏。

国を愛し、自由を愛し、日本の未来を憂う安部氏の言葉を、HOTNEWSではシリーズで紹介している。


1〜3回までは「日本共産化の危機」について警告する内容、そして今回は「戦争を振り返った、師団長としての安部氏の体験談」となる。

軍を指揮していた将校による戦争体験談、とくにシベリア抑留についての証言は、歴史を学ぶ上でとても貴重だ。

※ なお本稿では、可能な限り 安部氏による原文そのままを掲載している。読みづらい部分があるかも知れないが、ご理解いただきたい。

目次
『終戦時のソ連・満州 / シベリア抑留の体験談』 - 安部孝一氏(元第百七師団長)の言葉まとめ④

戦争 - 初めから負けていた

わが海軍には遠距離偵察機が一機もなく、敵情に関してはお先真っ暗。わが八木博士の発明した電探は敵の専用で、暗夜に正確な命中弾が飛んでくる。暗号は完全に敵に解読されて、山本司令長官の行動が一々敵に察知されて撃墜された。

米国では大砲を一門作れば、それに見合う砲弾が命数(それだけ弾丸を撃てば大砲が廃品になるという弾数)だけ作られるというのに、八幡製鉄所の第1回空襲に高射砲弾を撃ち過ぎたとて上司から叱られたという。

作った飛行機は、戦場にゆく途中で故障のため片っ端から墜落して、貴重なパイロットとともに失われる。ガソリンが欠乏して松根油とかアルコールなどオクタン価の低い燃料で間に合わせる。


これらの事情は、全国に張り廻らせられたスパイ網により敵方に筒抜け。わが全土の精密な大梯尺の地図はいつの間にか敵により測定され、すべての軍需工場や重要な建物はマークされていた。


果たせるかな海軍は ミッドウェーで致命的打撃をうけたのを手始めに、制空権、制海権を失い、戦い利あらずついに瀬戸内海に退避し、わが船舶の大半は敵潜により撃沈され、陸軍は懸軍東西南北おのおの六、七千キロの広大な地域に兵力を分散して補給続かず、到る処 飢餓と玉砕とを繰返して数百万の犠牲を出して敗れ去ったのは周知のとおりである。

端的にいって、太平洋戦争は海軍が負けたのであり、最初から必勝の信念を欠如した海軍を戦争に追い込んだ軍部の大失態であった。


編集者注:
ここからは、安部孝一氏による 終戦時のソ連・満州の戦い 並びに シベリア抑留の体験談となる。

* 一〇七師団傘下の二〇九連隊の「会報」の序文より

玉砕覚悟の国境守備

そもそも満洲西部国境は、興安嶺山脈が緩やかな起伏をもって哈拉哈河(ハルハ川)に至り、さらにこれを越えて、茫漠たる草原が遥か遠く外蒙の地に連なるところ、人煙希れにして、狼や獐(のろ)などの野獣が跳梁出没する地域である。

その一角 阿爾山(ハロンアルシャン)に温泉が湧出し、ここにわずか混成一旅団にも充たない阿爾山駐屯隊が孤立配置され、北方海拉爾(ハイラル)および南方熱河省の隣接地区に至る広大な間隙には、一兵の配置もなかった。


昭和十九年、太平洋戦争の戦況急を告げ、ソ連の動向も予断を許さない状況下において、阿爾山駐屯隊を改編増強して、予の指揮する第百七師団(満洲第八七部隊)が配置されるに至ったが、師団は編成早々、広く哈爾濱、斉斉哈爾、白杜(白城子-杜魯爾鉄道)沿線に至る広範な地域に分散されていたので、速やかに阿爾山-徳伯斯地区に兵力を終結するため兵舎の構築を急いでいた。


師団主力の位置する阿爾山地区周辺には、既設の永久陣地が築設されていたが、その正面80キロにも及び、とうてい師団の兵力だけで守備することは不可能だった。

しかも、この陣地は主要なる山頂のみに点々築かれた特火点のみで、互に連絡する交通壕も、陣地を囲む障害物もはなはだ不十分で、その中間の谷地は全く開放されて、敵の潜入を阻止するなんらの施設もなく、しかも陣地内には、水源皆無で、長時日の守備に堪えず、敵進攻せば玉砕を覚悟せねばならなかった。

終戦を知らず進撃すること十日

かくて十五日天明となる。阿爾山方面の敵はその戦車の一部で歩兵第九十連隊の間隙を突破し、わが行李輜重を襲って潰走せしめ、主力で突進して来たが、わが砲火と挺身大隊の肉迫攻撃により退避した。

またそのカチューシャ砲は司令部付近を集中砲撃し、大和村方面の敵自走砲は湿地帯よりわが腹背に敵を受け、順路後退不能なので、北方ハマコーザ方面より迂回し、同地-トーチン河谷-朴賚特(ジャライト)-塔子城に後退するに決し、日没とともに転進を開始す。

時恰も八月十五日、終戦の日に当たり関東軍また停戦したのだが 危うく敵手に陥らんとした暗号書を司令部の書記が焼却したので、暗号の解読不能、重要な軍命令も伝わらず、従ってなんら知るところなく約十日間、興安嶺地帯を一意東進し続けた。


十五日午後より細雨霏々として道路は次第に泥濘化し、進路を横ぎる水流も刻一刻増水して車両の通過困難に陥る。すなわち兵力で石を渡河点に投込み浅瀬を作って通過す。師団の進路は全くの無住地帯で、糧食の補給は不能、ハマコーザは酪農場で、穀物の貯蔵皆無だった。

一同は草根を掘り、或いは流れに手榴弾を投じて魚をあさり、わずかに飢を凌いだが、日とともに疲労と飢餓とで体力消耗し、夏服のままとて夜間の寒気のため凍死するものあり、重傷者にして落伍するものは自決するなど惨憺目を蔽わしめた。


八月十六日午後以来敵の追躡なく、また敵機も姿を現さず、諸隊はおおむね、整斉と後退を続行した。

八月二十三日、師団主力は、初めて蒙古人のコテネロ部隊に到着して、若干の糧食を取得したが、この頃、予は通信隊の無線機により関東軍の停戦、満洲国皇帝退位のラジオ放送を聴取したが、確実を欠くので、一般に知らせることなく行進を継続し、

八月二十五日朝、師団主力は歩兵第九十連隊主力を前衛として行進中、午後その先頭は号什台付近においてソ軍の小部隊と接触し、ソ軍がわが進路上に進出しあることが明らかだったので、予はこれを撃攘するに決し、主力を展開して、敵を北方高地線に圧迫するごとく、攻撃せしめた。


師団は夜間も攻撃を続行し、二十六日午後に至る。たまたま興安方向より有力なる敵歩砲部隊現れて射撃を開始したが敢えてわれに近接せず、彼我相対峙して夕刻に及ぶ。

この間後方を続行中の非戦闘員部隊は左右より挟撃を受けつつある緊迫せる状況中にも拘わらず悠々緩々遥か地平線のかなたまで連なり、中には停止して炊煙をあぐるものもあって焦慮一方ならず、幸い敵の近迫がなかったので師団主力は日没頃付近の谷地に集結し、

二十七日払暁敵と離脱して音徳爾(インドル)に向かい、途中終日上空に対し遮蔽し、夜間行動を起こし、二十八日払暁、先頭をもって札賚特旗公署の位置(音徳爾)着、夕刻までにおおむね主力を集結し、消息不明だった歩兵第百七十八連隊を掌握した。

同隊も主力に劣らぬ難行軍を重ね、多数の戦友を山中に失い、二十四日音徳爾(インドル)に到着したのであった。


ことにおいて、予は、直ちに満人に変装させた三組の将校斥候を選抜し、これを新京の関東軍司令部に連絡に赴かしむべく命令下達中、日章の標識を付けた飛行機飛来し、ビラを投じてソ連に対して武装を解除すべきを伝達す。


これまでの敵の軍旗を奪い、勝利の感覚に意気揚々たる師団の将兵は、憤激してこの似非飛行機をまさに撃墜せんとしたとき、付近の草原に着陸したこの飛行機より、日ソ両軍参謀が現れ、終戦の勅語と関東軍の武装解除に関する命令とを伝う。

師団の将兵は止むなく涙を呑んでソ軍に武器を交付し、軍旗を奉焼してソ軍の統制下に入った。


時にソ軍の参謀は、ソ軍が近迫中なるを機上から目撃したと称し倉皇としてその位置に赴き、これが前進を停止させた。爾後、予は武装解除の指示を受くるため敵師団長のクシナレンコ少将のもとに赴き、鹵獲した軍旗を返還した。

ソ軍を驚かせた勇敢な日本軍人

師団当初の兵力13,160名のうち、帰国したもの8,018名で、他の5,142名は死亡確実者と生死不明者とであった。戦場における損害は不明確だが2,000~3,000名を下らないものと推定される。

ことに歩兵第百七十八連隊(第二大隊と連隊砲中隊欠=遼陽派遣)は当初2,249名で、その損害は約300名であった。


武装解除後、予は、副官、通訳兵ならびに当番兵を伴い、ソ軍師団参謀護送のもとに、興安、洗南、列車内に各一泊ののち、9月2日新京に送られ、先着の抑留将官の一部と白水ホテルで合流。

9月18日チタに10月5日列車でハバロフスク将官収容所に至って抑留され、25年4月、同地で収監、戦犯として軍事裁判により25年の刑に処され、同署の第21分所に収容、27年10月モスクワ北方イワノボ州のドイツ人将官収容所に移送、31年末釈放されて帰還した。


師団の諸隊は将校、下士官兵毎に分けられ、10月初旬より逐次入ソ、各地を転々、苛酷な労役を強いられて、多数の犠牲者を出したと聞く。

戦闘前後の概況は前述のごとく、全般の状況を明らかにするための経過を概述したが、実戦に参加された各位は、各種各様の終生忘れ得ぬ体験と印象とを持たれたことであろう。


予は終戦後抑留生活のため、各位と全く消息を断ち、ただ風の便りに、一同が仮借なき悪条件のもと多数の死者を出したことを耳にしたのみである。戦後実情を聞くに及び、想像を絶する大なる試練に直面したことを知った。

すなわち、凛烈なる冱寒に堪え、灼熱の炎暑を凌いで重労働に駆使され、栄養失調に苦しみ、悪疫瘴癘に悩み、心神と体力とを消尽し、可惜青春を異邦の山野に失ったもの夥しく、英魂永えに弔う人もなく、肉体徒らに白樺の肥料となる、悲しからずや。


思えば予の拙劣なる指揮により兵力を分散し、不的確なる状況判断のもとに退路の選定を誤り、多数の部下を死傷させた責任を痛感するとともに、乃木将軍の「愧ず、我れ何の顔ばせあってか父老に見えん、凱歌今日幾人か還る」の心境で、深く肉親と戦友各位とにお詫び申し上げる次第である。

しかしながら、わが団下将兵は、寡兵よく優勢にして優良装備の敵に対して意気軒昂、堂々と戦い、日本軍人の本領を発揮し、敵をして敢えてわれに近づけしめず、ひたすらわが攻撃を警戒恐怖しつつ専守に終始せしめたことは、予を護送したソ軍師団参謀ラドチエンコ少佐の告白によっても明らかである。

国軍中最も遅くまでソ軍と交戦して、その心胆を寒からしめたことは、もってわが師団の誇りとするに足る。


このたび、連隊の会報の編集成り、これが発行を見、慰霊祭も挙行される由、まことに同慶の至りと喜びに堪えず、今その衝に当たる安田貫三氏、予に託する序文の寄稿をもってす。

見るとおり、徒らに冗長、しかも、かえって意を尽くさず、蕪辞を連ねてその責をふさぐ。願わくば、各位におかれては生ある限りいよいよ結束を堅くして、英霊を末永く慰められんことを祈念するものである。

昭和51年11月3日
元第百七師団長 陸軍中将
安部孝一


劣悪な環境下においても大日本帝国軍人としての職務を全うし、異国の地で収監されても「日本人としての誇り」「日本国への愛」を失わない安部孝一氏の生き様。

本シリーズ1〜3回目の内容(日本共産化への警告)に 今回の体験談が加わることで、胸にこみ上げてくるものがある。

国を護るために命がけで戦った先人たちに敬意を表し、その情熱を受け継いで、我々も日本を護っていきたい!

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