結婚は何のため? ユダヤ人(ユダヤ教)の結婚観が理想的すぎる!
更新日:結婚は何のためにするのか? 独特なユダヤ教の結婚観から『夫婦円満・いい夫婦』になる秘訣をご紹介します。
筆者は5年前から ユダヤ式家庭教育を学び、その内容を多くの方々と共有してきました。(特に ハブルータ勉強法は、教育熱心なママ達から多くの支持を得ています ^^)
しかしある時、「我が家でもユダヤ式家庭教育を実践してみよう!」と頑張るママ達(時にはパパ達も)が、必ずぶち当たる壁がある事に気付きました。
その壁とは、いわゆる「夫(妻)との価値観の不一致」。特に家庭教育に対して、夫が関心を示してくれないというものでした。
良き母になろうとすればする程、夫との関係がギクシャクし、教育方針の違いから いつしか夫婦関係に亀裂が入ってしまったご夫婦も…。
筆者の住む韓国にはこんな言葉があります。
子どもを有名大学へ進学させるには、次の3つが必要。
・祖父の財力
・母親の情報力
・父親の無関心
子どもの為には父親の無関心が必要!? ・・・教育熱心なユダヤ人の父親にとって、衝撃的な言葉に違いありません。
参考記事
ユダヤ人は4,000年間、男性と女性が同一の価値観(=子どもを神から選ばれた民として育てる)を持って結婚し、夫婦一丸となって家庭生活を営んできました。
つまりユダヤ人の父母は、良き父母である前に 良き夫婦なのです。
では何故ユダヤ人は「いい夫婦」でいられるのでしょうか?
このシリーズでは、ユダヤ人が持つ結婚観に焦点を当てて 夫婦円満の秘訣を探っていきます。
ユダヤ人にとって結婚とは何か?
ほとんどの人は「結婚とは何か?」と聞かれても、曖昧にしか答えられないことでしょう。
人によっては「好きな人と一緒にいられること」「幸せになる手段」だと考えるかもしれません。
「結婚は人生の墓場」だという名言(迷言?)や、
「結婚 = 世俗的なもの(汚れている)」と捉え 聖職者が独身を貫く宗教もあるほど、
結婚に対する考え方は様々です。
それでは、ユダヤ人にとって結婚とは何でしょうか?
ユダヤ教では「結婚とは義務であり神から与えられた最高の祝福」だと説いています。
そもそもユダヤ教聖職者であるラビは既婚男性。しかも育児を経験した者でないと認められません。
「良き家庭を持つ指導者こそが、社会の為に良き(善き)働きができる」と彼らは信じているのです。
下記は、ユダヤ教の「結婚する目的」が明記されている聖書の言葉です。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
(創世記 1章27~28節)
敬虔な子孫(=神の種を受け継ぐ人類)を多く生産することは、神の人間創造の計画を成就すること。
また主なる神は言われた、
「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
(中略)
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
(創世記 2章17〜24節)
男女とは「二人で一つの存在」。
つまり 夫婦になってこそ「一人前の人間」。
神から選ばれた特別な民族であるユダヤ人にとって、子孫繁殖と家門繁栄は 信仰生活だけでなく人生の目的そのもの。
ユダヤ人の男女は、「立派な子どもを多く産み育てることこそが、神が人間に与えた最高の祝福である」という価値観のもとに結婚します。
そのためユダヤコミュニティでは、なるべく早い時期に結婚し たくさん子どもを持つことを推奨。
(※ 正統派のユダヤ教徒は、男性が大学卒業後 / 女性が高校卒業後 に結婚)
特に篤実なユダヤ教徒の家庭では産児制限をしないため、現代でも子沢山家庭が多いのです。
神本主義ゆえに夫婦が団結
ほとんどの動物と違い、人間は子孫繁殖を目的としない性行為を行う生き物。さらには人間だけが 姦通(不倫)という罪を罰しようとします。
それに対しユダヤ人たちは
「神が定めた一対の男女(アダムとエバまで遡り)が、夫婦間のみの性行為を通して一生涯 愛し合い 喜びを享受できるように創造された為」
と理解しています。
男性独りでは一人前の人間ではなく、女性もまたしかり。二人が一対の体となり、精神的に強く結ばれている夫婦の姿こそが 神の姿に似た「本当の人間の姿」であると説きます。
そもそも彼らの結婚に対する価値観は、聖書を根拠とした徹底的な神本主義。それゆえユダヤ人夫婦は、団結して子どもを教育し 家庭生活へ忠実にならざるを得ないのです。
結婚式のひな型 - ユダヤ教の結婚式とは?
次にご紹介するのは「結婚式」。
ヘブライ語では「キドゥシン」と言い「神聖なもの」もしくは「奉献」という意味を持ちます。
ユダヤ人にとって結婚式とは、新郎新婦が神と多くの証人の前で結婚の約束を宣言し、公認を受ける儀式。そして結婚式を終えると、社会の一員として より成熟した責任ある行動が要求されます。
つまり夫婦とは「神の選民として、どのような家庭を作り、共同体に対して いかに貢献すべきか?」を共に悩み、実践していくバートナーなのです。
家庭単位の聖殿 フッパー(天蓋)で誓うこと
ユダヤ式結婚式で用いられる 四角形の布で作られたフッパー(天蓋)。これには、主礼のラビと新郎新婦のみが入ります。
フッパーは神が臨在する聖殿模型。この中で新しく結ばれた夫婦は、互いの役割をよく分かち合い神の祝福を享受することを誓います。
(※ もし新郎新婦の片方がユダヤ教徒でない場合は、改宗後にユダヤ式 結婚式を挙げることができる)
ユダヤ教における男女の役割は明確です。
例えば夫(父親)の役目は「家庭の頭・祭司長・柱」。家長として経済に責任を持ち、子どもの選民教育を母親と共に熱心に行うこと。
妻(母親)の役目は「家庭の花・光」。夫の助け手として 温かさと愛情を持って家庭を守り、奉仕することです。
結婚式では まず母親がロウソクの火を灯す
ユダヤ教ではない一般的な結婚式でも、まず母親がロウソクの光を灯します。これはユダヤ教の結婚式から伝承されたもの。
(※ 日本では披露宴で新郎新婦がキャンドルサービスをすることの方が多い)
この母親が灯すロウソクの光は、希望と温かい愛情を象徴します。
ユダヤ人にとって「善き女性(妻&母親)」とは「善き家庭」そのもの。女性を心から尊敬し、家庭における役割を重要視しているのです。
ユダヤの法では、母親がユダヤ人であればユダヤ人と認めるほど。母親の信仰教育こそがユダヤ人のアイデンティティを決定付けます。
結婚式で母親が光を灯したように、妻となった娘もまた、毎週安息日の食卓にロウソクの光を灯しながら家族を支えていくのです。
参考記事
なぜユダヤ人の結婚指輪は金なのか
彼らが結婚式で妻にはめてあげる結婚指輪は、原則として「装飾の無い金の指輪」。
これは、新郎が新婦を金のごとく大切にするという証しであり、完全な円は永遠なる夫婦関係を誓うことを意味しているそう。
ユダヤ教の結婚式でワイングラスを割る理由
ユダヤ教の結婚式において欠かせないのが、ワイングラスを割る儀式(ワインは神の祝福を意味)。映画のワンシーンなどで見たことがあるかもしれません。
この儀式は「かつて異邦人によって二度も破壊されてしまったエルサレム聖殿を、奪回することを決して忘れない!」という意思表示。
世界中に散らばるユダヤ人にとって、イスラエルにあるエルサレム聖殿は民族団結の象徴。先祖の苦痛と苦難の歴史の証です。割る際に できるだけ大きな音を立てなければならないのも、そういった理由があるため。
人生最大の祝福と喜びの日であっても、このように民族を思いアイデンティティを確認し合う彼ら。
同時に これから夫婦で築いていく家庭を小さな聖殿として「神が臨在できる家庭」にしていく という決意表明の場でもあるのです。
この他にも「財産贈与を含む契約書を作り互いに署名する」など、元来ユダヤ教徒が行ってきた結婚式の儀式を 他宗教でも取り入れているケースが多々あります。
結婚式のひな型ともいえるユダヤ教の結婚式。それは彼らの強い選民思想のもとに、夫婦が崇高な目的を持って神聖な家庭を築いていくという約束の場なのです。
男女は結婚によって「人」になるという価値観
ユダヤ教徒が学ぶタルムードには
「妻を持たない男は、喜びなく、祝福なく、幸福なく生きる」
と記されています。
一見すると現代にはそぐわない非常に手厳しい言葉。なぜそこまで言い切るのでしょうか?
その理由は、聖書の創世記 5章1~2節に書かれている聖句を読めば理解できます。
神が人を創造された時、神をかたどって造り、彼らを男と女とに創造された。
彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。
ここでいう「アダム」を ユダヤ教では「人」として解釈します。
アダムがアダムであるためには、すなわち男性が男性としてのアイデンティティを自覚し その役割を果たすためには、必ず「妻(エバ)」という存在が必要だというのです。
女性もまた、どんなに高い知識と能力を持っていたとしても 女性一人では半人前の存在。男性という全く別の性質・身体機能を持つ存在と出会うこと。夫婦として一対になってこそ、初めて女性も「人」になるのです。
ユダヤ人にとって結婚とは、まさに神の似姿「完全な人間」として生きていくための出発点。
そうした崇高な目標を持っているからこそ、夫婦が(子どもを教育するため)互いの価値を尊重し合い、男女の違いこそも「神の与えた祝福である」と感謝することができるのでしょう。