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李登輝元総統(台湾民主化の父)への追悼文 - キリスト教と日本精神で無血の民主化を進めた業績

更新日:李登輝元総統(台湾民主化の父)への追悼文 - キリスト教と日本精神で無血の民主化を進めた業績

2020年7月30日、台湾の李登輝元総統が台北市内の病院で、多臓器不全などのため逝去されました(享年97歳)。心からご冥福をお祈り申し上げます。


さて、とある方より「李登輝先生への追悼文」と題して寄稿していただきました。

下記の内容が 分かりやすくまとめられています。長文ですが ぜひご一読ください。

  • 一滴の血も流さずに、台湾の民主化を成功
    (その業績から、李登輝氏は『台湾民主化の父』と称される)
  • 政治家としてだけではなく、学者としても超一流の経歴
  • 奥様である曽文恵氏とのエピソード
  • キリスト教と日本精神によって、台湾を親日国家へ。それに伴い、東アジアの平和維持に大きく貢献


【注】
※ 太字やマーカー線は、当サイト編集部によるものです。
※ 文中では、人物の敬称を全て省略させていただきました。

(李登輝氏は尊敬すべき人物であり、敬称なしでの表記は大変心苦しいのですが、・・・長文に敬称をつけると非常に読みづらくなってしまうため。何卒ご了承ください)

目次
李登輝元総統(台湾民主化の父)への追悼文 - キリスト教と日本精神で無血の民主化を進めた業績

李登輝先生への追悼文

李登輝はその生涯において多くの業績を挙げ、先進国家 台湾*において「イスラエルのモーセ」「アメリカのワシントン」に匹敵する存在だと言われています。

* 台湾の人口は 現在2350万人超。九州ほどの国土を所有。


特に次の3点において、李登輝は画期的な仕事をやり遂げました。

台湾に民主主義を定着

第一に、台湾に民主主義を定着させたことです。台湾は戦後 大陸から入ってきた国民党の独裁政権が長く続きましたが、現在は日本と同様、政権交代可能な民主主義国家になりました。李登輝はこれをやり遂げ「台湾民主化の父」と呼ばれています。

台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は30日、深い哀悼の意を示し「台湾民主化への貢献はかけがえのないものだった」と表明。李登輝は、蔡英文総統の精神的な支えとなってきたのです。

中国共産党から東アジアの自由を守った

第二に、李登輝は台湾独立の道筋を示し、中国共産党から東南アジアの自由を守りました。仮に 台湾が中国共産党(以下、中共)の支配に陥っていたならば、台湾島は中共の領土となり、南シナ海は完全に中共の海となっていたことでしょう。日本は石油ラインを阻止され、中共の属国に転落していました

日本と台湾の架け橋に

第三に、日本と台湾の架け橋になったことです。「自分は日本人」と公言し、「日本人以上に日本を知る人」と呼ばれ、今日のアジア随一の親日国家 台湾を育てました。これは、反日国家韓国との大きな違いです。韓国にも 李登輝のような人材が出ていたなら、日韓関係はもっと円滑であったはずですね。

敬虔なクリスチャンだった

そして特筆すべきは、李登輝は1961年(38歳)にプロテスタント長老派キリスト教に入信した 敬虔なクリスチャンだった ということ(李登輝の信仰観については後述)。


以上について 順を追って振り返ります。

先ずは、李登輝先生の歩みと その業績から見ていきましょう。

1.李登輝先生の歩みと業績

注:以下は日経新聞を参考

学者として

1923年1月15日、李登輝は当時の台北県三芝郷埔坪村に、父:李金龍(警察官)、母:江錦の次男として生まれました。

京都帝国大学農学部に進学。戦後は台湾に戻り 台湾大学を卒業。その後 大学教員や農業技師を務め、学者としての道を歩みます。

大学時代は「農業簿記」を学び、同時にマルクスや河上肇などの社会主義関連の書籍に親しみました。後日、李登輝は自身が一時期 共産主義者であったことを認めています。


1944年、学徒出陣により出征。大阪師団に入隊し、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属。終戦を名古屋で迎えました。

1945年2月15日、兄の李登欽がマニラ市のマニラ湾において戦死(享年24)。大日本帝国軍人として靖國神社に祀られています。

また 台湾大学編入後の1947年、いわゆる「二・二八事件」が発生。国民党政府の弾圧によって 2~3万人の台湾人が犠牲となりました。この事件において、李登輝は 台湾人および日本人としての経歴から 粛清対象となる可能性が高く、知人の蔵に匿ってもらいます。


1952年、アメリカへ留学。アイオワ州立大学で農業経済学を研究しました。1953年に修士学位を獲得して台湾へ帰国。台湾省農林庁技正(技師)兼 農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務することになりました。その後、台湾大学助教授として 学者の道を歩みました。


1965年、42歳でコーネル大学へ留学。同大学では農業経済学を専攻しました。農業経済学を専攻し、米国で最優秀博士論文賞を受賞。1968年7月に帰国し、台湾大学教授 兼 農復会技正(技師)に就任しています。

政治家への道

帰国後、国民党を率いた蒋介石の息子で後継者の蒋経国総統に 農業専門家として見込まれ、71年に国民党へ入党。政界入りを果たしました。

蒋経国が行政院長に就任すると、李登輝は政務委員*として入閣(49歳)。1978年 台北市長に任命、1981年には台湾省主席に任命されます。

*政務委員:日本における無任所大臣に相当


もともと学者だった李登輝は 出世に興味がなく、お世辞を言わずズケズケものを言いました。しかし、李登輝の持つ 勤勉さ、誠実さ、正直さと言った日本人気質を 蒋経国は高く評価していたと言われています。


1984年、蒋経国により副総統候補に指名され、第7期中華民国 副総統に就任。

そして 蒋経国の死去を受け、88年に65歳で副総統から総統へ就任。同時に国民党主席も兼務して 権力を掌握することになります。

台湾民主化の父

史上初の本省人*総統として、蒋一族に連なる外省人*政治家を 政権中枢から追放。国民党の独裁体制を解くことに成功しました。

* 本省人:戦前からの台湾人

* 外省人:戦後、台湾に渡って支配した中国大陸出身者


そして96年の直接選挙導入につなげ、選挙で選ばれた初めての総統に就任(73歳)。台湾を自立した民主体制につくり替えていきます。

こうして ついに一滴も血を流すことなく、民主化が実現。6度にわたる憲法改正によって、静かなる革命を成就させました。李登輝は「台湾民主化の父」と呼ばれています。

二国論の展開

中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化(台湾化)を推進。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガン、即ち、今までの「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱し、「現実外交」を展開しました。

中華人民共和国による中国大陸の実効支配を認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国(台湾)という別の国家が存在する と主張。台湾の統一を目指す中共とは たびたび摩擦を生みました。

99年には「台湾と中国は特殊な国と国の関係だ」と表明し「二国論」を展開。「一つの中国」を主張する中共と対立しました。

この李登輝の現実的な二国論の決断が、台湾の国家的自立を世界へと宣言。アジアの自由を守ることになったのです。


李登輝の目指したものは「託古改制」から「脱古改新」への転換。

託古改制とは「古に照らして制度を改革する」という旧態依然とした制度を重んずる考え方。それに対して脱古改新とは「古を脱し 新しく改める」こと。

つまり、中国的・アジア的価値から脱却し 台湾の主体性を確立するという意味です。

指南役として

2000年の総統選には出馬せず、台湾独立志向を持つ民主進歩党(民進党)陳水扁に政権を移譲。55年間 続いた国民党からの初の政権交代となり、民主主義を根付かせました。李登輝は国民党主席を辞め、01年には党からも退きました。

総統退任後も政界では大きな影響力を見せ、台湾独立志向を鮮明に。08年以降の国民党・馬英九(マーインチウ)政権の対中融和路線を批判して民進党に近づき、12年1月の総統選では同党候補の蔡英文(ツァイインウェン)を応援しています。

この国民党から民進党への変身など、立場立場で政治的主張が異なることがあり、一見すると風見鶏だと思われがち。台湾国内では「李登輝は駆け引き上手な現実主義者」というイメージが強いと言われています。勿論、リアリスト李登輝 一流の懐の深さでありましょう。


16年に就任した民進党の蔡総統に対しては、対中傾斜を修正して台湾の自主性を強化する方針を支持し、その精神的な柱となりました。

李登輝は親日家として有名。日本に知己を広げ、国民党の独裁政権下で禁止された日本文化を開放するなど 日台交流に貢献。21歳まで日本の占領下で育ち、日本の文化にも精通し、流暢な日本語で政界などに日本の知己も多く、日本と台湾の交流拡大に多大な力を発揮しました。


01年、心臓病治療を理由に 16年ぶりの訪日。それが日中間の外交問題となりましたが、その後も たびたび訪日。07年には 靖国神社にも参拝*しています。

* 1945年に日本軍兵士としてフィリピンで戦死した李登輝の実兄が、靖国神社へ合祀(ごうし)されている。


李登輝は 1949年、淡水の地主の娘である曽文恵と見合い結婚。1男2女をもうけましたが 長男を癌で亡くしています(享年32歳)。

哲学にも造詣が深く、熱心なキリスト教徒でした。信仰する宗教はプロテスタント(長老派)で、日本統治時代に使用していた名は岩里 政男でした。

2.親日家「李登輝」と その思想

李登輝を祀る『台湾之塔』沖縄県糸満市摩文仁
台湾之塔 - 沖縄県糸満市摩文仁にて撮影

李登輝のルーツ

李登輝のバックグラウンドには

  • 中国の客家(はっか)の血筋
  • 戦前日本の教育による日本精神
  • 二度のアメリカ留学でのアメリカ文化
  • 長老派クリスチャン

という多様なルーツがあります。


ちなみに 李登輝のルーツである客家(はっか)とは、中国漢族の一つ。古代王朝の中心地(黄河中流 周辺地域)から 戦乱に追われて南方に移ったと伝えられ、主に広東・福建・江西省 境界の山岳地に住む、独自の言語や慣習を持つ集団です。

香港・台湾・東南アジアへの移住が多く、それぞれの地で政治家や企業家を輩出*。ディアスポラのユダヤ人と称されることがあります。

* 太平天国の指導者である洪秀全、中国国民党の孫文、中国共産党の鄧小平、シンガポールのリー・クアンユー、台湾総統の李登輝 など


その多様なルーツの中でも、「日本精神」と「キリスト教」は李登輝の思想形成に最も大きな影響を与えました


それでは、生涯流暢な日本語を話し

  • 21歳(1945年)まで日本人だった
  • 難しいことは日本語で考える

と公言してはばからない、親日家 李登輝の思想と世界観を見ていきましょう。

親日家 李登輝

李登輝は 日本精神を高く評価し、後藤新平*を「台湾発展の立役者」として心酔しています。

* 後藤新平:台湾総督府 民政長官を務め、台湾の民生改革を行った


日清戦争の結果 1895年から1945年までの50年間、日本は台湾を統治。李登輝は月刊誌ボイス(9月号)に寄稿し、「戦前日本と台湾は同じ国だった。当時 我々は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」などと語りました。

「台湾における日本の植民地政策が 台湾社会を劇的に近代化した」という史実を、台湾の人々は熟知。今や台湾はアジア最大の親日国家となっています。


2007年5月末〜6月初旬にかけて訪日した際、日本外国特派員協会で開かれた記者会見にて「“靖国問題” とは中国とコリアがつくったおとぎ話だ」と発言

実際 2007年6月7日には、日本兵として戦死した兄が奉られている靖国神社を参拝。李登輝は同神社に対し「兄の霊を守ってくれることに感謝している」と述べました

また、訪日の際に日本外国特派員協会において「尖閣列島は台湾のものではありません。日本のものです」とも発言しています。

* 勿論、国民党の馬英九(マーインチウ)総統は「台湾を裏切り、人民を辱める発言」と激しく李登輝を批判し、李登輝に発言の撤回と謝罪を求めています。


李登輝は記者会見で次のように語っています。

私は日本の統治の仕方については、高く評価しております。台湾を非近代的な農業社会から近代社会に持ち込むときに、一番大きな問題は司法と行政が分割しない中国社会でした。これを日本は はっきり司法と行政を分けました。

後藤新平は私の先生ですよ。本当に台湾のために奮闘しました。こういう人たちがいるからこそ、台湾人は永久に日本を忘れません。そして15万町歩を灌漑した八田與一先生。こういう人たちに対して、台湾では依然として神様みたいにして大事にしておりますよ。

李登輝は「後藤新平と私の間には精神的な深いつながりがある」とし、「今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にある」と語りました

確かに後藤は、民政長官として在任した9年あまりの間 その力量を遺憾なく発揮。台湾は未開社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの発展を遂げました。

当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地。アヘン吸引者も多く 産業に特筆すべきものもない、まさに未開な状態だったのです。


「日本が『日本人の理想』として作り上げたのが李登輝だ」と噂されるほど、李登輝は日本を愛しました。

台湾には今も「日本精神」という言葉が残り、「誠実、礼儀、勤勉、清潔」などを象徴する言葉とされています。


以上の通り、「よき日本の理解者」である李登輝は 台湾の民主化に寄与。アメリカと並んで 東南アジアの絆を確かなものにしたのです。

台湾に李登輝が出たことは 台湾の最大の幸運。そして台湾だけでなく、日本やアジアの自由にとっても かけがえのない運命的な存在でした。くれぐれも哀悼を表したいと思います。

李登輝の世界観に学ぶ

また、この難しい国際情勢の中にあって、李登輝の世界観は大いに参考となります。

私たちは、今や第三次世界大戦の第二段階ともいうべき只中。ソ連共産主義が第一段階とするならば、より狡猾で手強い中国共産党との 第二段階目の世界大戦に直面しています。今こそ、李登輝が遺した思想を想起し、第三次世界大戦の後半戦を勝利しなければなりません。

私たちは何故、共産主義と戦わなくてはならないのでしょうか。李登輝も指摘した通り、共産主義は必ず独裁と対外膨張を伴い、国民が犠牲となります。そして何よりも神を否定する哲学と、憎悪を根底とする暴力的な階級闘争を伴うからであります。


私たちは 中共ときっぱり決別し、世界的には アメリカ・イギリス・日本の海洋3国家が自由の連帯を固めて世界をリードし、アジア圏においては、日本・アメリカ・台湾・韓国が一体となって 中共の脅威に備えるべきです。

また、「ファイブアイズ5eyes)*」に日本を加えて「シックスアイズ(6eyes)」へと拡大。そのためには スパイ防止法の制定が急務です。

* ファイブアイズ(5eyes):アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの情報網

3.クリスチャン李登輝の信仰

さて、李登輝の思想と政策を理解するには、「クリスチャン 李登輝」を知らなければなりません。何故なら、李登輝の政治信念の根底には キリスト教信仰がある為です。

李登輝は 1961年(38歳)の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教へ入信。即ち、李登輝は政治家である前に 敬虔なクリスチャンです。


李登輝の信仰については、著書『愛と信仰―わが心の内なるメッセージ』(1989年 早稲田出版)に記されています。


李登輝元秘書の早川友久氏によると、李登輝はあるとき「お前は60歳になったら山へ入り、人々を伝道するのだ」という夢を見たとのこと。

これを「神が自分に告げた使命だ」と悟った李登輝は、以来 60歳になったら山の人たち(つまり日本時代は高砂族と呼ばれた原住民の人々)へ キリスト教を伝道する決意をしたといわれています。

従って、蒋経国から副総統に指名されたとき、李登輝は61歳で「そろそろリタイヤして伝道に携わろう」と思っていたのだとか。


敬虔なキリスト教徒として、悩みに悩む李登輝のもとへ、蒋介石や蒋経国といった蒋家の牧師を務めた周聯華(ジョウリェンホァ:1920~2016)から手紙が届きました。

神様が60歳を過ぎたら山へ伝道に行きなさい、と告げたとしても、今や国家があなたを必要としている。副総統として国や人々のために働くことは、より重要なことだ。とにかく今は副総統の職務を全うして、山へ伝道に行くことは また後で考えればよいのだ。

こうして李登輝は、自身が伝道に携わることをいったん棚上げし、副総統としての職務に邁進することを決めたのでした。


では李登輝は、何故かくもこれほどまでに敬虔なキリスト信徒になったのでしょうか。早川氏は次のように述懐しています。


李登輝は、「心の虚しさを埋めてくれるものが信仰であり、キリスト教だった」と語りました。では李登輝の心の虚しさとは何でしょうか。

当時は 日本の支配から中国の支配への大転換機であり、価値観が交錯。学生時代は一時期マルクスの本をよく読んだりもしました。しかし いかなるものも結局、李登輝の心まで満たすことは出来ませんでした。

その心の穴を埋めてくれたのが キリスト教への信仰だったのではないでしょうか、と。

つまり、自分は台湾人なのか、日本人なのか、はたまた中国人なのか、一体自分とは何者なのか について、アイデンティティが喪失して空しかった自分に、「キリスト教徒という新たなアイデンティティ」を得ることができたというのです。


ちょうどそのころ、母親を亡くして心の痛手を受けていた夫人の曾文恵が、キリスト教に入信。曾文恵が信仰によって 心の安定を取り戻していくのを、李登輝は間近で見ていました。こうして夫人の曽文恵から勧められ、キリスト教へ入信したのです。

以後、政治の世界で頭角を現していく李登輝でしたが、困難に直面するたびに聖書を開き、心の安定を図ってきました

李登輝・曾文恵 夫妻の信仰エピソード

ひとつエピソードがあります。

1988年1月、蒋経国総統が急逝し 李登輝が総統へ昇格した夜のこと。その日は 国家を背負う重責により、なかなか寝付くことが出来なかったそうです。

そんな夫を見かねて、夫人が「お祈りしましょう」と聖書を出してきました。李登輝夫妻のやり方は、いつも聖書を両手で持ち、当てずっぽうに開き、そして開かれたページに書かれた文言を読む というもの。

そこにはこう書かれていました。

けれどもわたしは常にあなたと共にあり、
あなたはわたしの右の手を保たれる。
 (詩篇73.23)


これを読んだ李登輝は、安心して眠りにつくことが出来たそうです。

そして、「クリスチャンに必要なのは、私の心の中にあるイエス・キリストに従って物事を判断し処理して行くこと」と語っています。

敬虔なキリスト教信仰が、民主化の精神的な柱に

独裁体制から 民主化された台湾へ。李登輝の民主化は一滴の血も流さずに行われていきました。その台湾の民主化を語るうえで忘れてはならないのが、李登輝を精神的に支えた信仰の存在です。

李登輝がキリスト教の信仰を通じて 最終的に見いだした自分自身のあり方が、次の聖句「私は私でない私」。

生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
 (ガラテヤ2.2)

2013年12月、台湾で同性婚を容認する法案に対し、「私はキリスト教徒だ。聖書に何と書かれているか見てみるべきだ」と発言し、反対の立場を表明しています。

キリスト教と日本精神による「台湾民主化の父」

李登輝元総統- 台湾民主化の父

李登輝の思想と業績、そして信仰については、以上のとおりです。

今 改めて思うことは、神が台湾に李登輝という「民族のモーセ」を立てられ、自由アジアのために台湾を導かれたという実感。

彼は「キリスト教」と「日本精神」を土台に、台湾を もはや後戻り出来ない民主主義国家に育てあげ、日本とアジアがいくべき道を明確に示しました。その意味で、シンガポールのリー・クアンユーや マレーシアのマハティールに優るアジアの巨星です。

化外の民、夷狄の国、移民の国として さげすまれてきた悲哀の民に、民族としての誇りを取り戻し、国家としてのアイデンティティを確立。


申命記34章に、カナンの地を目前に120歳で死んだモーセの最期が描かれています。

モーセはモアブの平野からネボ山に登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこで主は彼に全地を示された。

そして主は彼に言われた、
『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである』
 (申命記34.1~4)

確かに李登輝は、モーセがカナンの地を目前にして死んだように、いまだ「台湾の独立」をこの目で見ることは出来ませんでした。しかし、ヨシュアのようなよき後継者が、早晩これを成し遂げるに違いありません。

今、自由主義国家の中で、台湾を国家承認すべしとの機運が高まっています。我が日本も例外ではありません。我々日本人は、これを後押しする義務があるのです。


最後に、よき戦いをなし終えて、堂々と天の国に凱旋された李登輝先生を偲んで、次の聖句をお送りし、追悼の言葉といたします。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。
 (ヘブル11.13~16)

この記事のまとめ

李登輝元総統(台湾民主化の父)への追悼文 - キリスト教と日本精神で無血の民主化を進めた業績
  • 台湾に民主主義を定着させた業績から、李登輝氏は「台湾民主化の父」と称されている。
  • 中国共産党から東南アジアの自由を守った。
    もし台湾が中共の支配下であったなら、日本は石油ラインを阻止され、中共の属国に転落していた可能性が大
  • 台湾と日本の橋渡しに。李登輝氏は「自分は日本人」と公言し、「日本人以上に日本を知る人」と呼ばれ、今日のアジア随一の親日国家 台湾を育てた。
  • 李登輝氏の民主化では 一滴の血も流れなかった。その台湾の民主化を語るうえで忘れてはならないのが、李登輝氏を精神的に支えた信仰の存在。
  • 「キリスト教」と「日本精神」を土台に、台湾を民主主義国家に育てあげた。そして 日本とアジアが行くべき道を明確に示した。
  • 同性婚に対しては、反対の立場を表明。
  • 昨今、自由主義国家の中で、台湾を国家承認すべしとの機運が高まっている。我々日本人は、これを後押しする義務がある。

我々日本人にとって、李登輝氏は「命の恩人」と言っても過言ではありません。

本稿をご覧になられた皆さま、ぜひ李登輝氏の業績を 多くの人へ伝えてください。

最後になりましたが、改めて 李登輝氏のご冥福を心からお祈りいたします。