岸田総理と菅前総理による「追悼の辞」全文 - 故安倍晋三国葬儀(2022.9.27)
岸田氏・菅氏による
「追悼の辞」全文
2022年9月27日、安倍元総理の国葬(正式名称 故安倍晋三国葬儀)が日本武道館で行われた。
ライブ放送を視聴していた筆者の個人的な感想だが、
- 安倍元総理の功績を称えた映像
- 岸田総理の追悼の辞
- 友人代表としての、菅前総理の追悼の辞
が印象深かった。
特に「追悼の辞」において 菅前総理が感極まって涙ぐんだシーンには、心を打たれた。
岸田総理、菅前総理の「追悼の辞」の全文を、以下に掲載する。
岸田文雄 総理「追悼の辞」全文
出典:首相官邸HP
従一位、大勲位菊花章頸飾(けいしょく)、安倍晋三元内閣総理大臣の国葬儀が執り行われるに当たり、ここに、政府を代表し、謹んで追悼の言葉を捧げます。
7月8日、選挙戦が最終盤を迎える中、安倍さん、あなたは、いつものとおり、この国の進むべき道を聴衆の前で熱く語りかけておられた。
そして、突然、それは、暴力によって遮られた。あってはならないことが起きてしまいました。
一体誰が、こんな日が来ることを寸毫(すんごう)なりとも予知することができたでしょうか。安倍さん、あなたは、まだまだ長く生きていてもらわなければならない人でした。
日本と世界の行く末を示す羅針盤として、この先も、10年、いや、20年、力を尽くしてくださるものと、私は確信しておりました。
私ばかりではありません。本日、ここに、日本の各界各層から、世界中の国と地域から、あなたを惜しむ方々が、参列してくださいました。皆、同じ思いを持って、あなたの姿にまなざしを注いでいるはずです。
しかし、それは、もはや、かなうことはない。残念でなりません。痛恨の極みであります。
29年前、第40回衆議院議員総選挙に、あなたと私は初めて当選し、共に政治の世界へ飛び込みました。
私は、同期の一人として、安全保障、外交について、さらには経済、社会保障に関しても、勉強と研鑽(けんさん)にたゆみなかったあなたの姿をつぶさに見てまいりました。
何よりも、北朝鮮が日本国民を連れ去った拉致事件について、あなたは、まだ議会に席を得るはるか前から、強い憤りを持ち、並々ならぬ正義感をもって、関心を深めておられた姿を私は知っています。
被害者の方々を、ついに連れ戻すことができなかったことは、さぞかし無念であったでしょう。私は、あなたの遺志を継ぎ、一日千秋の思いで待つ御家族のもとに拉致被害者が帰ってくることができるよう、全力を尽くす所存です。
平成18年、あなたは、52歳で内閣総理大臣になりました。戦後に生を受けた人として、初めての例でした。
私たち世代の旗手として、当時、あなたが、戦後置き去りにされた国家の根幹的な課題に、次々とチャレンジされるのを、期待と興奮をもって眺めたことを、今、思い起こしております。
私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。まだまだ大いなる可能性を秘めている。それを引き出すのは、私たちの勇気と英知と努力である。日本人であることを誇りに思い、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか。
戦後最も若い総理大臣が発した国民へのメッセージは、シンプルで明快でした。
戦後レジームからの脱却。防衛庁を独自の予算編成ができる防衛省に昇格させ、国民投票法を制定して憲法改正に向けた大きな橋を架けられました。
教育基本法を約60年ぶりに改めて、新しい日本のアイデンティティの種をまきました。
インドの国会に立ったあなたは、二つの海の交わりを説いて、インド太平洋という概念を初めて打ち出しました。
これらは全て、今日に連なる礎です。
その頃、あなたは、国会で、総理大臣とはどういうものか、との質問を受け、溶けた鉄を鋳型に流し込めばそれでできる鋳造品ではないと答えています。
たたかれて、たたかれて、やっと形を成す鍛造品。それが総理というものだと、そう言っています。鉄鋼マンとして世に出た人らしい例えです。
そんなあなたにとって、わずか1年で総理の職務に自ら終止符を打たねばならなかったことくらい、つらい事はなかったでありましょう。しかし、私たちはもう、よく承知しています。
平成24年の暮れ、もう一度総理の座に就くまでに、あなたは、自らを一層強い鍛造品として鍛えていたのです。
二つの海の交わりを説いたあなたは、更に考えを深め、自由で開かれたインド太平洋という、たくさんの国、多くの人々を包摂する枠組みへと育てました。
米国との関係を格段に強化し、日米の抑止力を飛躍的に強くした上に、年来の主張に基づき、インド、オーストラリアとの連携を充実させて、QUADの枠組みを作りました。
あなたの重層的な外交は、世界のどの地域とも良好な関係を築かれた。
欧州との経済連携協定と戦略的パートナーシップ協定の締結、そして、アジア地域、ユーラシア地域、中東、アフリカ、中南米地域と、これまでにない果断で率直な外交を展開され、次々と深い協力関係を築かれていった。
平和安全法制、特定秘密保護法など、苦しい経過を乗り切って、あなたは成就させ、ために、我が国の安全は、より一層保てるようになりました。
日本と地域、さらには世界の安全を支える頼もしい屋根をかけ、自由、民主主義、人権と法の支配を重んじる開かれた国際秩序の維持増進に、世界の誰より力を尽くしたのは、安倍晋三その人でした。
私は、外務大臣として、その同じ時代を生きてきた盟友として、あなたの内閣に加わり、日本外交の地平を広げる仕事に、一意専心取り組むことができたことを、一生の誇りとすることでしょう。
国内にあっては、あなたは若い人々を、とりわけ女性を励ましました。子育ての負担を少しでも和らげることで、希望出生率をかなえようと努力をされた。
消費税を上げる代わりに、増える歳入を、保育費や学費を下げる道に用いる決断をしたのは、その道の先に、自信を取り戻した日本の若者が、新しい何かを生み出して、日本を前に進めてくれるに違いないと信じていたからです。
あなたは、我が国憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史は、その長さよりも、達成した事績によって、あなたを記憶することでしょう。
『勇とは義(ただ)しき事をなすことなり』という新渡戸稲造の言葉を、あなたは、一度、防衛大学校の卒業式で使っています。
Courage is doing what is right.
安倍さん、あなたこそ、勇気の人でありました。
一途な誠の人、熱い情けの人であって、友人をこよなく大切にし、昭恵夫人を深く愛した良き夫でもあったあなたのことを、私は、いつまでも懐かしく思い出すだろうと思います。
そして、日本の、世界中の多くの人たちが、安倍総理の頃、安倍総理の時代、などとあなたを懐かしむに違いありません。
あなたが敷いた土台の上に、持続的で、全ての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓いとしてここに述べ、追悼の辞といたします。
安倍さん、安倍総理。
お疲れ様でした。そして、本当にありがとうございました。どうか、安らかにお休みください。
菅義偉 前総理「追悼の辞」全文
出典:TBS
七月の、八日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命を取りとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で現地に向かい、そして、あなたならではの温かなほほえみに、最後の一瞬、接することができました。
あの運命の日から、八十日が経ってしまいました。
あれからも、朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミは いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には 秋の雲がたなびくようになりました。
季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに 許せないものを覚えます。
天は何故、よりにもよって このような悲劇を現実にし、命を失ってはならない人から、生命を召し上げてしまったのか。
悔しくてなりません。哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の この日を、迎えました。
しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ武道館の周りには、花を捧げよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。
二十代 三十代の人たちが、少なくないようです。明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは、今日よりも 明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという 強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして「日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ」――これが、あなたの口癖でした。
次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて 経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちが こんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。報われた思いであります。
平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。
私は 当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは「会いたい」と、電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちた あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。
その まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺らがなかったことであります。
総理、あなたは一度 持病が悪くなって、総理の座を退きました。そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選 出馬を、ずいぶんと迷っておられました。
最後には 二人で銀座の焼鳥屋に行き、私は一生懸命、あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。
三時間後には、ようやく首をタテに振ってくれた。私はこのことを「菅義偉 生涯最大の達成」として、いつまでも誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度 気兼ねのない話をしました。いまでも ふと独りになると、そうした日々の様子が、まざまざと よみがえってまいります。
TPP交渉に入るのを、私は できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると 勢いを失う。前進してこそ 活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。
安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を すべて成立させることができました。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は 確固たるものにはならない。あなたの信念 そして決意に、私たちは とこしえの感謝を捧げるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。そして、真の平和国家 日本を希求し、日本を あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは 常に笑顔を絶やさなかった。いつも周りの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。私は本当に幸せでした。
私だけではなく すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは我が国 日本にとっての、真のリーダーでした。
衆議院 第一議員会館1212号室の あなたの机には、読みかけの本が一冊ありました。岡義武 著『山県有朋』です。
「ここまで読んだ」という最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで線を引いたところがありました。
印をつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が長年の盟友 伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽し丶人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽し丶人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。
どうか安らかに お休みください。
安倍氏が亡くなられたことは、誠に残念でならない…。
しかし 偉大なリーダーを失ったとはいえ、我々は歩みを止めることなく、引き続き努力し続けたい。
安倍氏の目指した「強く美しい国、日本」を実現するためには、我々一人ひとりの力が重要なのだ。
※ 菅氏の「追悼の辞」で登場した書籍は、下記となります。