愛は“恋”とは異なり、出会ってすぐ“開花”するものではありません。その後の長い歳月を通して、“種”から育んでいくものなのです。
では、愛はどこから始まるのでしょうか? 愛の始まり―、それは“関心”にほかなりません。
前回は恋と愛との違いに触れながら、恋から愛に至るのに“4つのステップ”があると説明しました。
今回はその最初のステップ、“関心のステップ”について見ていきたいと思います。
一言でいうなら、愛は関心をもつこと、相手に関心を向けることから始まるのです。
今日のコンテンツ
★100年の恋も冷める瞬間!?
★恋の相手は架空のイメージ!?
★愛=関心を向けること
★夫婦が“無関心”になる時
★私から相手に関心を向けよう
100年の恋も冷める瞬間!?
一生、この人と共にいたい…!! そんな情熱的恋心をも吹き飛ばしてしまうものが結婚生活なのかもしれません!!(汗)
女性を冷めさせる瞬間とは、恐らく、結婚前には見られなかった“彼”の子どもじみた言動や横柄な態度(内面)、マナーのなさや生活のだらしなさ(外面)に直面した時でしょう。
髪が立ってる、鼻毛が出てる、シャツがはみ出してる、やりっぱなし、帰宅してすぐステテコ姿になる…等々。
見たくもなかったものを見せられることで、“ウルトラマン”が一般人に戻ってしまう訳です。
一方で、男性が恋から冷める瞬間とは、結婚前には見たことのなかった“彼女”のわがままさやイライラ(内面)に直面した時であり、だらけ切った色気のない姿や、メイク姿とすっぴん姿とのギャップを目の当たりにした時などでしょう。(汗)
見てはならないもの(!?)を見てしまったことで、“シンデレラの魔法”が溶けてしまう訳です。
しかし―。これらは誰のせいでもありません。
ただ、生活を共にすることで、二人の“ありのままの姿”(欠点・未熟さ含む)が露わになっただけの話なのです。
恋の相手は架空のイメージ!?
心理学者ユングによれば、人が恋をするのは、自分の内にある理想のイメージ(理想の男性像・女性像)を相手に投影するため。
すなわち、人は“現実の相手”に恋をしているのではなく、“理想化した相手”(=自分の理想像)に恋をしているのです(!!)
無論、相手の中に自分の理想像と重なる“何か”があったからこそ惹かれた訳ですが、当然、“自分の理想”と“現実の相手”がピッタリ重なる訳ではありません。
そのギャップが大きいほど、“興ざめ”してしまうのでしょう。
そう考える時、相手に“幻滅”を覚える理由は、“相手”のせいではなく、“自分の理想像”のせいなのかもしれません!!(汗)
こんなジョークがあります。
「おじさんは好きな人とかいなかったの?」
「そりゃあ、いたさ。ある女性と、たった一度会っただけで恋に落ちた」
「じゃあ、なんで結婚しなかったの?」
「二度会ったのがマズかった…」(苦笑)
“恋”とは、現実の相手を“知らない”から芽生え、“知ってしまうこと”で冷めてしまうものなのかもしれません。しかし、“愛”は、これとは逆に、生身の相手を“知ること”から始まるのです!!
愛 = 関心を向けること
関心とは“相手に心を向けること”。平たく言うなら、“ちゃんと見ること”であり、“ちゃんと知ろうとすること”です。
親に愛されたい子どもが最もよく使う言葉は何でしょうか? 彼らは「僕(私)を愛して!」とは言いません。「ねぇねぇ、見て見て~」「聞いて聞いて~」と言うのです。
親が彼らのやること・言うことに目を向け、心を向け、耳を傾け、意識を注ぎ、喜んだり驚いたりする姿をみた時、彼らは「愛されてる!!」と感じるのです。
関心を向けること―。それが愛の始まりと言えるでしょう。
関心は“興味”とは違います。興味とは“相手”に誘発される受動的な心の動きを言いますが、関心とは、“自分”から相手に心を向け、相手を知ろうとする、能動的・主体的な心の姿勢を言うのです。
人は見たいものを見、聞きたいこと聞き、知りたいことを知ろうとしますが、それは“興味”であって、“関心”とは呼べません。同じように、相手を理想化し、見たい姿だけを見ようとするなら、それは“恋”であって、“愛”とは言えないでしょう。
一人を“愛”するには、良いところも悪いところも、足りなさも未熟さも含め、“ありのままの相手を知ること”が求められるからです。
もし今、あなたが相手の素の姿に驚愕(!?)し、“100年の恋”が喪失の危機にさらされているとしても、落胆する必要はありません。ありのままの相手を知ること―。それが、恋から愛へと移り変わる第一歩だからです。
夫婦が“無関心”になる時
相手に関心を向けること。それはとても“力の要ること”です。
しかし、私たちは自分がやっていることには、「もっと関心を向けて欲しい~!!」と思うことでしょう。
それこそ、こっ恥ずかしくて、「見て見て~」「聞いて聞いて~」と言えないだけで、関心を欲しているのは、大人も同じなのかもしれません。
にもかかわらず、私たちの日常において、そうした関心を向けてもらえないことがどれほど多いでしょうか?
夫が「ただいま~」と帰宅しても、妻は料理の手を止めず、振り返りもせずに、ボソッと「おかえり…」とだけ答える。また、妻が「ねぇ、あなた…」と話しかけても、夫はスマホから目を離すことなく、「ああ、聞いてるよ」と気のない返事をする。
よく見る日常のワンシーンですが、それでは、愛は芽を出せないでしょう。
作家の宇野千代さんがこんな言葉を残しました。「愛とは関心をもつこと。手入れが必要である。手をかけない愛は枯れる。」
時々、愛の種が芽を出すことなく、土の中で壊死してしまうようなケースも見られます。
そんな時、多くは「愛が冷めてしまったんです」と言われますが、実際は“愛が冷めた”のではなく、本当の意味で“愛が育っていない”のです。
愛は土の中で必死に“芽”を出そうとしているはずですが、“関心”をもたず、放置されたままでは、愛の種は本当に干からびてしまうでしょう。
私から相手に関心を向けよう
多くの場合、夫婦が互いに関心を向けられなくなっているのは、“愛が冷めた”からでも、“憎しみ”ゆえでもありません。
ひとえに自分のことで精一杯で、“心にゆとりがない”のです。
しかし、あなたが相手の“関心”を欲しているように、相手もまた、あなたの関心を欲しています。
ときめきや胸の高鳴りを覚える必要はありません。不満や不安の思いが入り混じっていても構いません。
ただ、 “相手に心を向けること”、それが愛を育み、また愛を取り戻す第一歩なのです。
“私”から相手に関心を向け、心を向ける時、相手の表情の変化を通して、「自分には相手を満たす力がある!!」という事実に気付かされるでしょう。
愛は自分ではなく“相手”を満たそうとすることを言います。そして不思議なことに、“相手を満たす”ことによって、“私が満たされる”のです。
せわしい日々、ゆとりも持ちにくいかもしれませんが、それでも、相手との間に愛の芽を育む最初の一歩は、いつでも、“相手に関心を向けること”だということを思い出してください。