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真の愛国心

新渡戸稲造 著『真の愛国心』。1ページ目はHOTNEWS運営チームによる現代語訳、2ページ目は矢内原忠雄氏による翻訳(戦前の日本語)です。

新渡戸 稲造
(にとべ いなぞう)

1862年(文久2年)〜1933年(昭和8年)。日本の教育者・思想家・農学研究者。国際連盟の事務次長などを務めました。

日本人の道徳・精神性である「武士道」を欧米に紹介するため、1900年『Bushido: The Soul of Japan』をニューヨークで刊行。

新渡戸稲造の『武士道』は、岡倉天心の『茶の本』、 内村鑑三の『代表的日本人』と並ぶ、三大日本人論の一冊だといわれています。

真の愛国心 - 現代語訳

国を偉大にする一番の方法

 長く外国にいて、しかも日本人と交流することが少なく、むしろ 日々多数の国の人々と交流していると、各国の国民性をいくらか窺うことができるように思う。

私の勤めている役所に来ている人々は 公式にその国の政府から任命されたものではないため、国家または政府を代表するものではないが、国民そのものは これを代表せざるを得ない。いくら各国政府がその人物を任命していないと言っても、推薦した以上は 自分の国を辱めるような人物を選ぶはずはない。従ってこの役所に集まってくる人々は、各国の国民性の長所を備えているといっても過言ではあるまい。そのため、日々交流していて不愉快に感じる者は非常に少なく、性格がく 仕事をする上でも自ずと愉快である。

「他山の石もって玉をみがくべし」という教えが世に伝えられているが、私は各国人と交わり、各国人の長所を学びたい考えだ。例えば 某国人はすこぶる勤勉である。ある国の人は さっぱりしており度量が大きい、ある国の人は機敏、ある国の人は忍耐強い、等のように、他国人の長所を見るにつけ、自分の短所が一層 明らかになると思う。

そんなことを言うと「謙遜しすぎて卑屈になる恐れがある」という者もいるだろうが、かりに私自身は 個人としてこの過ち(=卑屈になりすぎる)があるとしても 日本国民全体が謙遜な態度をとることはないだろうから、私はむしろ 我が国民性に如何なる欠点があるのかを省みることが、国を偉大にする一番の方法ではないかと思う。

言葉を換えて言えば反省、自己の過ちを知ること、己の短所を自覚すること、これが「おおいに伸びんとする前に大に屈せねばならぬ」というおしえに適うことで、これがなければ国民は慢心するのみである。慢心は亡国の最大原因である。

アメリカ詩人の無遠慮な詩

 私の友人にアーヴィンという、作家として相当に名を轟かせたアメリカ人がいる。この人が昨年の夏頃作った詩がある。これを読んで私は大いに感服した。内容が日本に関することであるから、必ずや日本語に翻訳されるだろうし、また 有識者の間では原詩(英語版)で広がるものと思い 友人たちに尋ねてみたところ、伝わっていないと聞いて とても残念に思った。

 詩の題は「隣邦の日本よ、しばし待て」(Wait neighbour Japan)というのである。しかしてその要点は、「世界の歴史をひもとけば、国が亡びる前には、国が富み その兵が強くなる。国民が慢心して ついには亡びるのである。米国は今まさにそのわだちを踏まんとしている。隣邦の人よ、しばし待て、なんじに無礼するものは自ずから亡ぶ」というので、このことを無遠慮に詠じている。

私はこれを読んで非常に驚いた。彼がその同胞であるアメリカ人たちへ警鐘を鳴らしていることは 彼の従来の著書に現われているが、このように露骨に、しかも外国人に宛てて自国人の欠点を遠慮なく述べた彼の勇気は 実に敬服の至りである。またも一歩深く立ち入って彼の心を推し量るならば、彼の真意は その同胞へ警鐘を鳴らすためとはいえ、言葉として外に現われたものは、ほとんど同胞を侮辱するが如きはげしい用語を使う必要があると彼が感じたことに、強く同情せざるを得ない。同時にまた、そのように言える彼のこの詩を読むアメリカ人の心持ちにも 感激せざるを得ないのである。もし場所を変えて 同じ詩を日本人が書き、これを日本の新聞か雑誌かに掲げたならば、どれほどの非難を受けるかと思えば、私はむしろアメリカ人たちの器の広きを羨ましく思うのである。

予言者あって国は偉大となる

 私はこの詩を読んで、その作者の奇抜にして国を愛するとともに 人道を重んずる点に感心し、同時に このような人がいずれの国を問わず国民としていたならば、それこそ いわゆる国の師ともいうべき存在であって、旧約聖書に登場するユダヤの預言者というのも 即ちこういう人であっただろうと推量する。彼はその国を愛するためにその国の短所を指摘して、彼らのるべき道を教え かつ 彼らを導いてくれたのである。

しかし残念なことに、予言者は自国において名誉を得られない。とにかく彼らは いわゆる愛国心のゆえに排斥せられ迫害され、その予言が的中するまでは無視されがちである。けれどもこういう人がいて 始めて国家は偉くなるものだと思う。自分の身(社会的立場)を顧みず、道(正義・公益)のために動く人がいなければ、国は「愛国者を自称するデマゴーグ」の口車に乗せられ、国運が傾くのを むしろ助けるような結果となる恐れがある。

 この類の人(=真の愛国者)は 必ずどの国にもいるものだと思う。現に私は イタリアにおいてもフランスでも、そのような人がいることを知っている。またドイツでも同様の人が 今は追放同然の身となっているのを知っている。ロシアに至っては こういう人が数多あまたいて、いずれも外国に流浪し、寒天に着るものもなく貧乏暮らしをしている。

真の愛国者の態度

 先日 とある国の人と話をしたのだが、その人いわく「我が国が貴国(=日本)に言語道断の態度をったのは、決して国民の大多数の意志を表わしたものでない。少数の政治家が選挙運動の都合上 あのような暴挙に出たものである。国家の責任を担う立場の者がああした態度に出たことは、我が国にとって大いに恥じるべきところである。自分は自分の国ながらも愛想がつきて、その国内に住むことが我慢ならない」とのことだ。これは一応 私に対する弁明のお世辞であると思っていたが、この人はその後、自国の家を引き払ってフランス南部に家を構えた。それから二ヶ月もしないうちに、同様の話を他の人からも聞いた。その人は当時外国にいたのであるが、そのままそこに住んで本国に帰らぬと言っていた。

 こうした人々の行為を「非愛国の人(=愛国者ではない)」と侮蔑する人がいるかもしれない。しかし、自国政府の行いを全て認め これに賛同し これを助けることが、果たして真の愛国心であろうか。理非曲直(=善悪・道徳・道理)の基準は一国に限定されるものではなく、人類一般に共通するものである以上、むしろ是々非々ぜぜひひ(=立場にとらわれず、良いことは良い、悪いことは悪いとする判断)を明らかにし、国が南であれ北であれ、はたまた東であれ西であれ、正義人道にかなうことを重んずるのが真の愛国心であって、他国の領土(財産)を略奪し 他者を誹謗中傷して自分のみが優れているとするのは、憂国でもなければ愛国でもないと私は信じている。

西洋にも現在 伯夷叔斉あり

 私は上で挙げた2つの例に接したとき、すぐに伯夷はくい叔斉しゅくせいの話が心に浮んだ。

※ 編集注:「伯夷と叔斉」の話をご存知ない方は、ぜひ 伯夷と叔斉 を先にご覧ください。

この兄弟(伯夷と叔斉)は熱い愛国者であり、周の武王が木像を載せて文王と称し 主君のちゅうを討とうとした時、彼らは「父が死んでほうむらぬ間に干戈かんかを起すは孝行でなく、臣が君をしいするは仁でない (父が亡くなって葬儀もせずに戦争をするのは 親孝行ではないし、家臣が主君を滅ぼすのは 仁ではない)」といって武王をいさめたが 聞き入られなかった。

国への愛情という点において伯夷と叔斉は、武王自身 または 太公望呂尚たいこうぼうろしょうにも劣らなかったであろう。彼ら(伯夷と叔斉)のには憂国よりも一層高いものがあり、その高いものにのっとって始めて 愛国が意義をなすのである。「不正な方法で勢力を得ても むしろ己の国を弱くするのだ」とし「義(道理・正義)のために周の穀物を食べない」といって首陽山に隠れた。

あるいは彼らの判断が誤りだった可能性もある。現に周の時代は八百余年と長きに渡り、その政治は今日も模範としてめられているのを鑑みると、彼らの判断能力にも非難すべき点があるように思える。しかし、彼らの隠れた動機に至っては 今日においても大いに学ぶべきことであり、孔子が「伯夷叔斉のような者が善人である」と称賛したのも無理ならぬことである。前に述べた二人の某国人ぼうこくじんの心持ちも、取りも直さず伯夷叔斉の心持ちをもって「自国の粟を食わず」といって他国に引っ越したのであるから、そのやり方は同じである。伯夷叔斉の時代に海外に渡る大船があったならば、おそらく首陽山に隠れないで、日本あたりに来たことだろう。

愛国心の現わし方

 我が国には「国を愛する人」は多くいるが「国を憂う人」はとても少ない。しかしその「国を愛する者」のなかに「盲目的に愛する者」がいないか心配である。かつてハイネは詩の中で「フランス人が国家を愛するのは妾を愛するがごとく、ドイツ人は祖母を愛するがごとく、英国人は正妻を愛するがごとくである」といった。

妾に対する愛情は感情にはしることが多く、可愛い時には無闇に愛するが、ちょっと気に入らぬ時には これを殴ることに躊躇しない。祖母を愛するのは御無理御尤ごむりごもっとも(相手の言うことに逆らわず、ただ従うこと)の一点張りである。正妻を愛するのは、妻の人格を重んじ 家庭と子供との利害を合理的に考えて愛するので、妻にあやまちがあれば これを叱責し悔い改めさせるその愛情は、一時的な感情に留まらぬのである。

世間では よく「国際関係には道徳がなく、正義人道が行われない」とも言われるが、私の知る限りでは、決してこれらのものが皆無であるということはない。現時点においては、未だこれらの基準によって決定されるとは言い難い。しかし いずれ、国の地位を判断する際に正義人道をもって行うときが来るのである。

昨今はいずれの国でも、その本音を隠すことが出来ない。国民の考えていること、政府のしたことは、ほとんど総てが短時間で暴露し、列国たちから注視されることになる。世界各国が一国を判断する時、その言うこと為すことの是非曲直ぜひきょくちょく(善と悪、正と不正)をもって判断する、あるいはその代表者がいかなる発言をしたか、いかなる行動をとったかによって判断する。またある国が卑劣であり、姑息こそくであり、陰険であり、また馬鹿げたことをすれば、それは 直ちに世界へ知れ渡るのである。

従って、ある国が世界のため 人道のために いかなる貢献を成したかは、その国を偉大にし その威厳が増す理由となる。国がその位地を高めるものは、人類一般 即ち 世界文明のために何を貢献するか という所に帰着する傾向が著しくなりつつある。

1925年1月15日
『実業之日本』28巻2号