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伯夷と叔斉

司馬遷が記した『史記』の初めに出てくるお話が、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)です。

ここでは伯夷叔斉のお話を、現代日本語で分かりやすく解説します。

※ 現代日本語への翻訳 並びに 赤字や括弧の補足は、HOTNEWS運営チームによるものです。

司馬遷
(しばせん)

紀元前145年〜紀元前87年(※ 司馬遷の誕生年は紀元前135年、没年は86年という説もあり)。古代中国、前漢時代の歴史家。

司馬遷の著作『史記』は 計52万6千5百字という超大作。単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている名作です。

伯夷と叔斉

古代中国の孤竹こちく国には、3人の王子(長男:伯夷はくい、三男:叔斉しゅくせい)がいた。

父である孤竹国の王は、叔斉を跡継ぎにしようと考えていた。そして王(父)が亡くなると、長男 伯夷は、生前の父の願いどおり 弟の叔斉に王位を譲ろうとする。

伯夷の言い分としては「叔斉に王位を譲ることは、父上の命令である」。しかし叔斉は「長男である伯夷が王位を継ぐのが道理である」と頑なに主張。遂に伯夷は(叔斉に王位を継がせるため)孤竹国から抜け出してしまった。

しかし叔斉もまた、自らが王位を継ぐことを承知せず、孤竹国を抜け出した。

※ 伯夷と叔斉が臆病だったというわけではありません。兄は父の遺言に従おうとし、弟は兄を立てようとしたのです。また、兄弟ともに「権力や豪華絢爛な暮らしを求めなかった」ともいえます。

そのため孤竹国の国民は、先代王の次男を跡継ぎとした。


こうして栄光ある玉座を捨て、孤竹国を抜け出した伯夷と叔斉。二人は 周の国王である西伯昌せいはくしょうが「老人をとても大切にする、徳の高い名君だ」という噂を聴いた。「それならば その名君が治める周で暮らそう」と、二人は周の国へ向かう。

しかし二人が到着してみると、すでに西伯昌は亡くなった後だった。

西伯昌の子供である武王は、西伯昌の位牌を車に載せ 西伯昌のことを「文王」と名付けていた。そして東方に位置するいんの国のちゅう王を討とうと行軍中であった。

※ 当時 中国大陸を治めていたのは殷、そして殷の王である紂は暴君であった。そのため武王は、殷を倒して 自らが新たな中国大陸の支配者になろうと考える。すなわち武王の行動は、現代でいうところのクーデターに相当。


伯夷と叔斉は武王軍のもとへ駆け寄った。そして武王の乗った馬を引き止めて、次のように諫言。

「お父上がお亡くなりになって葬儀もせず、このような時に戦争をする。これは孝(親孝行)と言えるのでしょうか?」

「家臣の身でありながら、主君を滅ぼす。これは仁(他者への思いやり、慈しみ)と言えるのでしょうか?」


武王の家来たちは、怒って伯夷と叔斉を殺そうとした。

しかし武王軍の軍師が「かれらは義人(人として正しい道を歩む者)である」とし、二人を殺すのを止めさせる。そして手助けをして、伯夷と叔斉を その場から立ち去らせた。


やがて武王は殷の乱を制圧し、世の中は「周が統治国だ」と認めるようになった。

しかし伯夷と叔斉は、周の覇権は恥ずべきことだとし、自分たちの行動こそが義(道徳的に正しいこと)だとして、周の穀物を食べなかった。

そして首陽山しゅようざんに隠れ住み、そこでぜんまいを採って食べて暮らした。


山で採れる薇だけでは とうてい食料が足りず、飢えて今にも死にそうな時に歌(詩)を作った。

かの西山(首陽山)に登り、そこのぜんまいを採って生活している。

暴力を用いて暴力に取って代わったが、武王はその非(道理に外れていること)を理解していない。

神農しんのう(※ 聖人とされる伝説上の統治者たち)は没して、聖人の世は滅んでしまった。私はどこへ身を寄せればよいのだろうか。

あぁ逝こう、命(運勢、天命)も衰えてしまった

こうして伯夷と叔斉は、首陽山で餓死してしまった。

これらを考えてみると、二人は死の間際で この世を恨んだのだろうか? そうではないのだろうか?