TOP >> ためになる話・教訓 >>

おじいさんのランプ p.2

 巳之助はもう、男ざかりの大人おとなであった。家には子供が二人あった。「自分もこれでどうやらひとり立ちができたわけだ。まだ身を立てるというところまではいっていないけれども」と、ときどき思って見て、そのつど心に満足を覚えるのであった。

 さて或る日、巳之助がランプのしんを仕入れに大野の町へやって来ると、五、六人の人夫にんぷが道のはたに穴を堀り、太い長い柱を立てているのを見た。その柱の上の方には腕のような木が二本ついていて、その腕木には白い瀬戸物のだるまさんのようなものがいくつかのっていた。こんな奇妙なものを道のわきに立てて何にするのだろう、と思いながら少し先にゆくと、また道ばたに同じような高い柱が立っていて、それにはすずめが腕木にとまって鳴いていた。

 この奇妙な高い柱は五十メートルぐらい間をおいては、道のわきに立っていた。

 巳之助はついに、ひなたでうどんをしている人にきいてみた。すると、うどんやは「電気とやらいうもんが今度ひけるだげな。そいでもう、ランプはいらんようになるだげな」と答えた。

 巳之助にはよくのみこめなかった。電気のことなどまるで知らなかったからだ。ランプの代りになるものらしいのだが、そうとすれば、電気というものはあかり・・・にちがいあるまい。あかり・・・なら、家の中にともせばいいわけで、何もあんなとてつもない柱を道のくろに何本もおっ立てることはないじゃないかと、巳之助は思ったのである。

 それから一月ひとつきほどたって、巳之助がまた大野へ行くと、この間立てられた道のはたの太い柱には、黒い綱のようなものが数本わたされてあった。黒い綱は、柱の腕木にのっているだるまさんの頭を一まきして次の柱へわたされ、そこでまただるまさんの頭を一まきして次の柱にわたされ、こうしてどこまでもつづいていた。

 注意してよく見ると、ところどころの柱から黒い綱が二本ずつだるまさんの頭のところで別れて、家の軒端のきばにつながれているのであった。

「へへえ、電気とやらいうもんはあかり・・・がともるもんかと思ったら、これはまるで綱じゃねえか。雀やつばめのええ休み場というもんよ」

と巳之助が一人であざわらいながら、知合いの甘酒屋にはいってゆくと、いつも土間どまのまん中の飯台の上に吊してあった大きなランプが、横の壁の辺に取りかたづけられて、あとにはそのランプをずっと小さくしたような、石油入れのついていない、変なかっこうのランプが、丈夫じょうぶそうな綱で天井からぶらさげられてあった。

「何だやい、変なものを吊したじゃねえか。あのランプはどこか悪くでもなったかやい」

と巳之助はきいた。すると甘酒屋が、

「ありゃ、こんどひけた電気というもんだ。火事の心配がのうて、明かるうて、マッチはいらぬし、なかなか便利なもんだ」

と答えた。

「ヘッ、へんてこれん・・・・・・なものをぶらさげたもんよ。これじゃ甘酒屋の店も何だか間がぬけてしまった。客もへるだろうよ」

 甘酒屋は、相手がランプ売であることに気がついたので、電燈の便利なことはもういわなかった。

「なア、甘酒屋のとッつあん。見なよ、あの天井のとこを。ながねんのランプのすすであそこだけ真黒になっとるに。ランプはもうあそこにいついてしまったんだ。今になって電気たらいう便利なもんができたからとて、あそこからはずされて、あんな壁のすみっこにひっかけられるのは、ランプがかわいそうよ」

 こんなふうに巳之助はランプの肩をもって、電燈のよいことはみとめなかった。

 ところでまもなく晩になって、誰もマッチ一本すらなかったのに、とつぜん甘酒屋の店が真昼のように明かるくなったので、巳之助はびっくりした。あまり明かるいので、巳之助は思わずうしろをふりむいて見たほどだった。

「巳之さん、これが電気だよ」

 巳之助は歯をくいしばって、ながいあいだ電燈を見つめていた。かたきでもにらんでいるようなかおつきであった。あまり見つめていて眼のたまが痛くなったほどだった。

「巳之さん、そういっちゃ何だが、とてもランプで太刀たちうちはできないよ。ちょっと外へくびを出して町通りを見てごらんよ」

 巳之助はむっつりと入口の障子しょうじをあけて、通りをながめた。どこの家どこの店にも、甘酒屋のと同じように明かるい電燈がともっていた。光は家の中にあまつて、道の上にまでこぼれ出ていた。ランプを見なれていた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめていた。

 ランプの、てごわいかたきが出て来たわい、と思った。いぜんには文明開化ということをよく言っていた巳之助だったけれど、電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるということは分からなかった。りこうな人でも、自分が職を失うかどうかというようなときには、物事の判断が正しくつかなくなることがあるものだ。

 その日から巳之助は、電燈が自分の村にもひかれるようになることを、心ひそかにおそれていた。電燈がともるようになれば、村人たちはみんなランプを、あの甘酒屋のしたように壁の隅につるすか、倉の二階にでもしまいこんでしまうだろう。ランプ屋のしょうばいはいらなくなるだろう。

 だが、ランプでさえ村へはいって来るにはかなりめんどうだったから、電燈となっては村人たちはこわがって、なかなか寄せつけることではあるまい、と巳之助は、一方では安心もしていた。

 しかし間もなく、「こんどの村会で、村に電燈を引くかどうかを決めるだげな」といううわさをきいたときには、巳之助は脳天に一撃をくらったような気がした。強敵いよいよござんなれ、と思った。

 そこで巳之助は黙ってはいられなかった。村の人々の間に、電燈反対の意見をまくしたてた。

「電気というものは、長い線で山の奥からひっぱって来るもんだでのイ、その線をば夜中にきつねたぬきがつたって来て、このきんぺんの田畠たはたを荒らすことはうけあいだね」

 こういうばかばかしいことを巳之助は、自分のれたしょうばいを守るためにいうのであった。それをいうとき何かうしろめたい気がしたけれども。

 村会がすんで、いよいよ岩滑新田やなべしんでんの村にも電燈をひくことにきまったと聞かされたときにも、巳之助は脳天に一撃をくらったような気がした。こうたびたび一撃をくらってはたまらない、頭がどうかなってしまう、と思った。

 その通りであった。頭がどうかなってしまった。村会のあとで三日間、巳之助は昼間もふとんをひっかぶって寝ていた。その間に頭の調子が狂ってしまったのだ。

 巳之助は誰かをうらみたくてたまらなかった。そこで村会で議長の役をした区長さんを怨むことにした。そして区長さんを怨まねばならぬわけをいろいろ考えた。へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、正しい判断をうしなうものである。とんでもない怨みをいだくようになるものである。


 菜の花ばたの、あたたかい月夜であった。どこかの村で春祭の支度したくに打つ太鼓がとほとほと聞えて来た。

 巳之助は道を通ってゆかなかった。みぞの中をいたちのように身をかがめて走ったり、やぶの中を捨犬のようにかきわけたりしていった。他人に見られたくないとき、人はこうするものだ。

 区長さんの家には長い間やっかいになっていたので、よくその様子はわかっていた。火をつけるにいちばん都合のよいのは藁屋根わらやねの牛小屋であることは、もう家を出るときから考えていた。

 母屋おもやはもうひっそり寝しずまっていた。牛小屋もしずかだった。しずかだといって、牛は眠っているかめざめているかわかったもんじゃない。牛は起きていても寝ていてもしずかなものだから。もっとも牛がをさましていたって、火をつけるにはいっこうさしつかえないわけだけれども。

 巳之助はマッチのかわりに、マッチがまだなかったじぶん使われていたうちの道具を持って来た。家を出るとき、かまどのあたりでマッチをさがしたが、どうしたわけかなかなか見つからないので、手にあたったのをさいわい、火打の道具を持って来たのだった。

 巳之助は火打で火を切りはじめた。火花は飛んだが、ほくち・・・がしめっているのか、ちっとも燃えあがらないのであった。巳之助は火打というものは、あまり便利なものではないと思った。火が出ないくせにカチカチと大きな音ばかりして、これでは寝ている人が眼をさましてしまうのである。

「ちえッ」と巳之助は舌打ちしていった。「マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなア、いざというとき間にあわねえだなア」

 そういってしまって巳之助は、ふと自分の言葉をききとがめた。

「古くせえもなア、いざというとき間にあわねえ、……古くせえもなア間にあわねえ……」

 ちょうど月が出て空が明かるくなるように、巳之助の頭がこの言葉をきっかけにして明かるく晴れて来た。

 巳之助は、今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかった。――ランプはもはや古い道具になったのである。電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古い自分のしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのにじゃましようとしたり、何の怨みもない人を怨んで火をつけようとしたのは、男として何という見苦しいざまであったことか。世の中が進んで、古いしょうばいがいらなくなれば、男らしく、すっぱりそのしょうばいはてて、世の中のためになる新しいしょうばいにかわろうじゃないか。――

 巳之助はすぐ家へとってかえした。

 そしてそれからどうしたか。

 寝ているおかみさんを起して、今家にあるすべてのランプに石油をつがせた。

 おかみさんは、こんな夜更よふけに何をするつもりか巳之助にきいたが、巳之助は自分がこれからしようとしていることをきかせれば、おかみさんが止めるにきまっているので、黙っていた。

 ランプは大小さまざまのがみなで五十ぐらいあった。それにみな石油をついだ。そしていつもあきないに出るときと同じように、車にそれらのランプをつるして、外に出た。こんどはマッチを忘れずに持って。

 道が西のとうげにさしかかるあたりに、半田池はんだいけという大きな池がある。春のことでいっぱいたたえた水が、月の下で銀盤のようにけぶり光っていた。池の岸にははんの木や柳が、水の中をのぞくようなかっこうで立っていた。

 巳之助は人気ひとけのないここを選んで来た。

 さて巳之助はどうするというのだろう。

 巳之助はランプに火をともした。一つともしては、それを池のふちの木の枝に吊した。小さいのも大きいのも、とりまぜて、木にいっぱい吊した。一本の木で吊しきれないと、そのとなりの木に吊した。こうしてとうとうみんなのランプを三本の木に吊した。

 風のない夜で、ランプは一つ一つがしずかにまじろがず、燃え、あたりは昼のように明かるくなった。あかりをしたって寄って来た魚が、水の中にきらりきらりとナイフのように光った。

「わしの、しょうばいのやめ方はこれだ」

と巳之助は一人でいった。しかし立去りかねて、ながいあいだ両手をれたままランプの鈴なりになった木を見つめていた。

 ランプ、ランプ、なつかしいランプ。ながの年月なじんで来たランプ。

「わしの、しょうばいのやめ方はこれだ」

 それから巳之助は池のこちら側の往還おうかんに来た。まだランプは、向こう側の岸の上にみなともっていた。五十いくつがみなともっていた。そして水の上にも五十いくつの、さかさまのランプがともっていた。立ちどまって巳之助は、そこでもながく見つめていた。

 ランプ、ランプ、なつかしいランプ。

 やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つ拾った。そして、いちばん大きくともっているランプにねらいをさだめて、力いっぱい投げた。パリーンと音がして、大きい火がひとつ消えた。

「お前たちの時世じせいはすぎた。世の中は進んだ」

と巳之助はいった。そしてまた一つ石ころを拾った。二番目に大きかったランプが、パリーンと鳴って消えた。

「世の中は進んだ。電気の時世になった」

 三番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜか涙がうかんで来て、もうランプにねらいを定めることができなかった。

 こうして巳之助は今までのしょうばいをやめた。それから町に出て、新しいしょうばいをはじめた。本屋になったのである。

* * *

「巳之助さんは今でもまだ本屋をしている。もっとも今じゃだいぶ年とったので、息子むすこが店はやっているがね」

と東一君のおじいさんは話をむすんで、めたお茶をすすった。巳之助さんというのは東一君のおじいさんのことなので、東一君はまじまじとおじいさんの顔を見た。いつの間にか東一君はおじいさんのまえに坐りなおして、おじいさんのひざに手をおいたりしていたのである。

「そいじゃ、残りの四十七のランプはどうした?」

と東一君はきいた。

「知らん。次の日、旅の人が見つけて持ってったかも知れない」

「そいじゃ、家にはもう一つもランプなしになっちゃった?」

「うん、ひとつもなし。この台ランプだけが残っていた」

とおじいさんは、ひるま東一君が持出したランプを見ていった。

「損しちゃったね。四十七も誰かに持ってかれちゃって」

と東一君がいった。

「うん損しちゃった。今から考えると、何もあんなことをせんでもよかったとわしも思う。岩滑新田やなべしんでんに電燈がひけてからでも、まだ五十ぐらいのランプはけっこう売れたんだからな。岩滑新田の南にある深谷ふかだになんという小さい村じゃ、まだ今でもランプを使っているし、ほかにも、ずいぶんおそくまでランプを使っていた村は、あったのさ。しかし何しろわしもあの頃は元気がよかったんでな。思いついたら、深くも考えず、ぱっぱっとやってしまったんだ」

「馬鹿しちゃったね」

と東一君は孫だからえんりょなしにいった。

「うん、馬鹿しちゃった。しかしね、東坊――」

とおじいさんは、きせるをひざの上でぎゅッと握りしめていった。

「わしのやり方は少し馬鹿だったが、わしのしょうばいのやめ方は、自分でいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしの言いたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地いくじのねえことは決してしないということだ」

 東一君は黙って、ながい間おじいさんの、小さいけれど意気のあらわれた顔をながめていた。やがて、いった。

「おじいさんはえらかったんだねえ」

 そしてなつかしむように、かたわらの古いランプを見た。


「既得権益にしがみつく者たちの醜さ」と「新しい時代に適応しようとする勇気」。

変化の著しい21世紀は、ランプ → 電灯 のような技術革新が これから幾度も訪れるはずです。

そんな時「個人の利益追求」にはしって社会の足を引っ張ることなく、「人類全体の公益」を追求する生き方を選択したいですね…。